ニートにハーブティーは要らない

ニートにハーブティーは要らない

思ったことを書いています

地に足つけて生きている人間の言葉にはドライヴ感がある

地に足つけて生きている人間の言葉には、ドライヴ感がある。

一見それは意味不明の言葉であっても、たしかな重量をもったカウンターパンチとして身体に響いてくる。

 

小さい頃は、よく喫茶店に預けられていた。祖父が自宅の一部を改造してやっていた喫茶店である。国語と美術の教師を長くつとめた祖父が、自分が好きな音楽をかけ、好きな詩集や雑貨を置き、のんびり時間をつぶすために作った店だった。なぜか店中にこけしを飾っていた。生真面目な祖父は、コーヒー豆屋から教わった方法を杓子定規に守って、抽出時間も一分一秒違わないように、サイフォンに一滴も水気がないようにふき取ってから、親の仇のように一杯のコーヒーを淹れていた。それ故、大して品質の良い豆を使っているわけではなかっただろうに、そこそこ美味いコーヒーだったらしい。

 

しかしわたしはコーヒーなんて飲まず、バナナパフェを作ってもらって、店の隅っこで宿題をやっていた。

 

すると、祖父のお仲間たちが続々とやってくる。地元の詩人、ジャズシンガー、画家、「あえて」こんなド田舎に住んでいるような人たち。たまに宗教家。「何か」を「あえて」田舎で発信しているような人たち。

 

彼らは何かハイコンテクストな話題でつながり、了見でつながり、目くばせしあっている。この空間で共にいることで、何か高みに上っているかのような、要は何らかのカルチャーを解しているという優越の意識があった。

 

「マスターのお孫さん」ことわたしにも、彼らは話しかけてくれるが、いまいち何を言っているのかわからない。わたしは坂本龍一と言えば「戦場のメリークリスマス」しか知らなかった。小さいながらに疎外感にたまらなくなり、宿題をもって母屋に引っ込む。

 

そこでは、肥った短髪の女が、干し柿をネチネチと食べながらワイドショーを見ている。祖母である。ハサミなど危険なものが散乱している紺色のソファーの上に電気毛布を敷いて、テレビに向かって悪態をついている。

 

わたしに気が付くと、「まんず座れ」と言う。

そして干し柿を口元に押しつけ、「ケ(食え)」と言う。

干し柿が嫌いなわたしは、食べないと祖母がキレるということをすでに知っているので、嫌々口に含み、あまり噛まずに飲み込む。干し柿はしばらく食道に張り付いているようで、胸が微妙に苦しくなる。この干し柿はおそらく、祖母が勤め先の産直センターでもらってきたものだ。あかぎれのあるガサガサした手の、年のいった女たちがたくさん働いている場所だ。祖母は産直センターで人気者で、こういうもらい物は優先的にまわってくる。

 

祖母は冷凍庫焼けしたアイスや、瓶に入ったおかき、絶望的な濃さの緑茶を矢継ぎばやに出してくる。そして、口角泡を飛ばしながらわたしに話しかける。

 

「昔は川さ行って野菜だのなんだの洗ったのス。したっけ人参流れて来たおん、おらも食えるど!ってケばうまくねぐてよ」

「かっちゃんベビースターにやられたのス」

「だぁれあったな裸みてな恰好であるってらのがいぐねのス」

「おめはんもよぐね童だごと」

 

上から順に、「祖母が人参を嫌いになった理由」、「祖母の母、つまりわたしの曽おばあちゃんが、足のあかぎれベビースターが挟まって悶絶した話」、「薄着して出歩く若者が風邪をひく話」、「わたしが性格の悪い子供である話」を示す。祖母はだいたいこんな感じの話をよくしていた気がする。

 

その生臭い生命力のある祖母の世間話は、祖父のお仲間たちの言葉よりもずっとリアリティがあった。川に流される人参をガリリとかじってまずさに顔をしかめる幼き日の祖母が、あかぎれベビースターが挟まって悶絶して周囲にキレ散らかす曽おばあちゃんの姿が、なにより「よぐね童っこ」というわたしにおあつらえ向きの形容詞が、生々しい実体をもってわたしの身体をガンガン殴ってくる感じがした。それは、しばしばナルシスティックな空想に浸りがちな子供心を、現実に連れ戻すには充分だった。ホグワーツに入れないわたしは、ニンバス2000から振り落とされて、もち米がよく育つド田舎のこの大地にビターンと叩きつけられたのだった。

 

なぜ祖父が祖母と結婚したのかずっと疑問だった。祖父がやる喫茶店にも「光熱費のムダ」と文句ばかり言い、ワイドショーを見ては政治家や芸能人に文句を言うのが趣味の祖母に、いつも祖父はあきれたような顔をしていた。でも今ならなんとなくわかる気がする。詩や小説が好きで、音楽にも一家言あるような人間は、しばしばナルシスティックな空想に捉われ、現実を生きられなくなりがちである。すぐに彼らは「彼方」を用意してそこに逃げようとする。自分を「特別」だと思おうとする。すると現実のなかで理想だけが空転するようになってしまう。祖父もまた、祖母によって、祖母の言葉によって地面に叩き落とされることを望んでいたのではないだろうか。

 

わたしが祖父のお仲間たちをいけ好かなく感じたのは、幼いながらに自分と似た成分を感知したからかもしれない。それと似たようなことが大学に入ってからもあった。先輩が何人かで文芸誌をつくったから、その刊行イベントをブックカフェでやるというので誘われて行ってみたことがある。ブックカフェという場所にも興味があった。しかしまあ行ってみると、ソフトな地獄だった。刊行するまでの内輪での苦労話、今「文芸誌」という古風な媒体を選んだのがいいよね~みたいな話。こんな排他的な空間を作る人たちに、「あたらしい言葉」とやらが降りてくるだろうかと疑問に思った。何か集団で空想に捉われているんじゃないだろうかと気持ち悪くなり、早々にブックカフェを出ると、似たように同じゼミの男の子が出てきて、お互い絶妙な距離を保ちながらはや歩きで帰った。

 

昔、わたしは本当に嫌な子供だったと思う。勉強も得意で、言葉もよく知っていた。講釈も垂れた。父に「高飛車だぞ」と怒鳴られ、床に顔を押しつけられたことがあった。今でも高飛車である。地面にしっかりと足をつけて現実を生きる強さをあまり持たないくせに、すぐに空想のなかで高みに上り、批判精神ばかりが肥大していく。知ったかぶりをして、優越の意識を持つ。祖父のお仲間たちや大学の先輩たちへのいら立ちは、彼らを鏡にして自分を覗き込んでいたということである。彼らが実際のところどうだったか、本当はよくわからないのだ。そういう風に見えていたという時点で、まあ、わたし自身がそういう風だったということだろう。

 

わたしには、地面に叩き落としてくれる祖母の言葉のようなものが必要である。「お前は特別でもなんでもない」「這いつくばって生きろ」と教えてくれるような、そして日常こそが最もおもしろいのだと示してくれるような言葉が。それは、カルチャー界隈の人たちが集まる店にも、内輪で創って趣味の良い本屋でだけ売られるような文芸誌のなかにも、きっと無いだろう。だんだんにそういう言葉を自分で発せるようにならないといけないと思うけど、まずはどんどん摂取しないといけない。逐一自分を叩き落とさなくてはいけない。

 

そういうわけで最近聴いているのはGEISHA GIRLSのKick & Loudである。

 

Kick & Loud

Kick & Loud

  • provided courtesy of iTunes

 

これはダウンタウンの地元、尼崎の言葉でつくられたラップである。貧しかった労働者たちの象徴のようなこの言葉が意味不明ながらもドライヴ感を持って迫ってくる。祖母のにらみつけるような眼差しと、唾を飛ばしながら語り掛けてきたあの勢いのある言葉たち、そんなものを思い出せるのである。するとだんだんこちらの身体もドライヴしてくる。空想に占領されていた身体が、スッと戻ってくるようなそんな感じである。

 

森岡のオッサン

メチャ臭い屁こいて朝から寝てまんねん

めばちこ さぶいぼ マロニー煮すぎて とけてもた

「Kick & Loud」作詞:Ken/Sho 作曲:Towa Tei 

https://petitlyrics.com/lyrics/17470

 

わたしはこれの東北弁を聞いてきたのである。

あの頃、公文式で苦悶していた

 

f:id:marple-hana1026:20181124001630p:plain

はい。

 

この鞄を見て、一瞬にして時をかけた人も多いのではないでしょうか。「くもん行っくもん♪」でおなじみのくもん学習指導教室のバッグですね。

 

ついこの間、この黄色とネイビーの鞄を持った子供たちが脇を駆け抜けていったとき、まさしくわたしも時をかけました。過去の風が吹いた、と感じました。わたしもまた、かつてはくもんキッズだったのです。

 

齢5歳にして「幼稚園行くのめんどいな」という感覚をもっていたわたしは、割りばしを削る、たんぽぽの茎を割いて水に沈めてクルクルにする、などの地味な作業に明け暮れるだけの空虚な生活をおくる残念なキッズでした。

 

そんなわたしに「○○ちゃん、おべんきょうとかしてみる?」と母が問いかけてきたのがはじまりでした。まるで何のことだかわかりませんでしたが、「おべんきょう」とやらで空虚な日々を埋めることができるのならそう損な話ではないと思い、「よかろう」と答えるとすぐさま母も「承知」とのことで、入塾の手筈がスピーディーに整いました。

 

連れていかれたのは、家のそばのくもん教室ではなく、なぜか車で10分くらい離れた祖母の家の近所にあるくもん教室でした。なるほど、そもそもわたしをくもん教室に通わせるというのは祖母の目論見だったのだなと気が付いたのはしばらく後のことです。よくよく考えれば母はわたしの勉強についてとくに興味がなさそうでした。一方の祖母はまだ幼子のわたしに『雨ニモ負ケズ』を百回書き取りさせるなど、教養スパルタ婆さんとしての才覚を発揮しており、なるほど「幼いうちからくもん式に通わせて賢い子にしよう」という計画を考えそうなわけです。

 

そういうわけでわたしは、まるで幼くて何もわかっていなかった5歳から、心身ともに発育し現在22歳のわたしと大体同じ位の背丈になった小学6年生になるまで、くもん漬けの日々を送ることとなったのです。

 

わたしは数学と国語を選択しました。

 

主に力を入れたのは数学のほうでした。いや、最初はさんすうだったのですが。

 

f:id:marple-hana1026:20181124003633p:plain

5歳の時分は、この大きな7を一生懸命にえんぴつのよれよれの線でなぞっているだけで大いに褒められました。1,2,3,4,5と順番になぞっていって、表ができたらシートをペリッと他のシートから切り離して裏面にいきます。このペリッが子供心に楽しく、どんどん鉛筆は進み、わたしはくもん教室のエリート街道を走り始めたというわけです。

 

わたしはつぎつぎに「進級」し、シートに書かれている文字はどんどん小さくなり、やがて×だの÷だの√だの≧だのが登場するようになり、いよいよめまいを覚えながらシートに向かうようになりました。持ち前の真面目さで「やらなきゃやらなきゃ」と歯をくいしばりながらがんばるうちに、自然とそうなっていったのです。そう、小学生にして高校数学を解くようになったのです。その教室に張り出されている進度ランキングを見ると、わたしの名前、ひどく凡庸な名前が書かれた平たいマグネットが一番上に申し訳なさそうにベタッと貼ってありました。はじめの頃は「負けないぞ~!」などと話しかけてくれた男の子にも、すっかり距離を置かれるようになってしまいました。

 

小学校でももちろん「算数ができる人」として認知されました。クラスの催しで「バースデーカード」を全員からもらったときに、そのほとんどに「計算がはやいね」とか「計算がせいかくだね」などと書かれていて、CASIOが誕生日を迎えたらこんなかんじかしらんと洒落たことを考えながらも切ない気持ちになっていました。あのとき、「○○ちゃんはお話がとっても面白くてたのしいよ」と書いてくれたたった3人くらいの子たちの幸せをわたしは今でも祈り続けております。

 

ところで、わたしはそのとき県内で進度が2位とのことでした。これに教室の先生は大いに喜び、「頑張ろうね、期待してる」と声をかけてくれました。わたしは「いよいよ参ったな」と思いました。なぜなら、そろそろ数学教材がわたしの理解の範疇を超えそうになっていたからです。毎日毎日何時間も放物線を書き、少し休んでは鉛筆で真っ黒になった手を呆然と眺めました。

 

先生に質問に行くと「自分で考えてみて」と返され、そう言われるとわたしはもう教室の隅っこで頭の上におっきな「?」マークを浮かべながら座り続けるしかありませんでした。気が付けば、教室に来てから6時間も座っていました。どうしてこんなにわからないんだろう、わたしは何をやっているんだろう、と自問自答を繰り返し涙をこらえながらじっと座っている。それが小学生の頃のわたしでした。

 

「さすがにもう帰っていいよ、またね」と言われ、引き戸をガラガラと開けて外に出ると夜風がすうっと冷たくて、鼻の奥がツンとするけど、これから向かう祖母の家の冷凍庫にあるパリパリチョコサンデーアイスのことを考えると涙は引っ込んで、バタバタと帰路を駆けたのでした。

 

そう、だましだまし頑張っていたけどわたしはもうすでに限界に向かっていました。そして、理解度が限界に到達すると同時に「中学校進学」といういい節目を手に入れ、先生に引き留められながらもスッパリとやめてやったのです。思い出がないわけではないですが、あのときほど「自由を手にした…!」と感じたことはありません。

 

くもんのことを思い出すと、ひとつ忘れられない光景があります。

 

書いていませんでしたが、わたしの2つ上の兄も一緒にくもん教室に通っていた時期がありました。兄もわたしと同じように、くもんに通うことに大きなストレスを感じていたようでした。そのため、兄はくもん絡みとなるとときどきトリッキーな行動をするようになっていました。教室内にカナヘビ(小さなトカゲのような生きもの)を持ち込んで、解き放ち、教室に悲鳴をもたらしたこともありました。 よく会社員の方などが「会社に隕石落ちねえかな」などと言いますが、まさにその発想でささやかながら実際に行動に移してしまうような深刻な状況だったのです。

 

ある日、わたしと兄はかなり早めにくもん教室についてしまい、外で開くのを待っていました。教室のすぐそばには小川が流れていました。キラキラと光が反射した底浅のその小川を橋の上から見下ろしながら、わたしと兄はなんとなく憂鬱な気持ちを共有していました。

 

兄は橋の手すりにもたれかかり、鞄を持った手をぶらりと小川の真上に投げだしていました。

 

「落としちゃうかもよ」と言うと兄はあいまいに笑うだけでした。

 

すると次の瞬間、ネイビーと黄色の影がシャッと小川へと落ちていきました。兄の手を滑り落ちた鞄は、清らかな水の上をなんとも呑気に滑っていきました。

 

兄は「お、落としちゃった!」などと慌てるふりをしましたが、嘘であるのはバレバレで、その顔は今手に入れた自由をかみしめて輝いていました。

 

そのすぐあとに、兄はわたしより先にくもん教室をやめました。

 

キラキラと輝く小川を流れていった、あのくもんバッグ。わたしのなかでそれは、女神像にも代えがたい「自由の象徴」として心の奥に残りつづけているのです。

 

 

 

 

 

 

 

テトリスに狂った男、父

この世でいちばん暇な人が誰だか、皆さんご存じだろうか。それは、今この地球のどこかでテトリスに興じている人である。


f:id:marple-hana1026:20181115222938j:image

テトリスとは

いわゆる「落ち物パズルゲーム」の元祖。「上から落ちてくる『4個の正方形で構成された7種類の多角形ブロック』(テトリミノ tetrimino)を操作して、埋まった横列のみが消えるのを利用してテニス(tennis)のラリーのようにひたすら消し続けていく」という単純明快なルールと直観的な面白さで世界規模で大ヒットした。

https://dic.nicovideo.jp/t/a/テトリス

 

4個の正方形からできた4種類のブロックを操作して横列を消していく簡単なお仕事。たいていこれをやる人間というのは、何かを先延ばしにしているか、本気で暇かのどちらかである。

 

寝そべって、ポテトチップスサワークリームオニオン味などを食べながらべとつく手でテトリスに興じている人間がいたら、そういう人間こそ「生産性」で槍玉にあげられるべきだろう。

 

かくいうわたしもついこの間、なぜかうっかりテトリスをインストールしすっかり狂ってしまった。空き時間があれば手が勝手にテトリスを開き、色とりどりのブロックを捌きはじめる。上の方にどんどんブロックが詰まってきて、にっちもさっちもいかなくなると悔しい思いがこみ上げて脳に血がたぎるようで、もう一度やってしまう。なにかやるべきことがあったような気がしても、やめられない。なんだかテトリスのことばかり考えてしまう。テトリスに肉の芽を埋め込まれたかのように。(わたしこれ好きですね)

 

しかし、テトリスをぶっ続けで数時間やってしまい外が暗くなっていたとき、やっと「これはマズい」と感じ、断腸の思いでアンインストールしたのがおとといのことである。テトリスに支配されていた頃のわたしが今は遠く感じる。

 

しかしわたしがテトリス郷に支配されてしまったのは、必然ともいえることだった。それはもともと組み込まれていた「血の宿命」であった。

 

そう、わたしの父こそテトリスを愛しテトリスに狂わされたその人であったのだ。

https://marple-hana1026.hatenablog.com/entry/2018/10/05/父という名の野性

 

このブログにもすでに登場している父であるが、ざっくりどんな人物かを説明しておくと、ずば抜けて無口で野性味にあふれ、何を考えてるんだかあまりよくわからない歯のないお父さんである。仕事は専門的な知識が要る情報インフラ系のことをしていて、なかなか出来るみたいだけど、家にいるときは本当に暇そうである。趣味は夏に鮎釣りをするくらい。家族ともそれほど喋らない。最近は猫に猫なで声で話しかけるなどの変化が見られるようになったが、やはり基本的に無口で暇そうにしていることに変わりは無い。

 

その父が家で見いだした生粋の余暇がテトリスであった。


f:id:marple-hana1026:20181115221051j:image

 

まだ携帯がこんなやつだったとき、最初に入っている唯一のゲームがテトリスだった。父はいつも、眉をしかめた「結婚は認めん」顔でひたすらテトリスに興じていた。

 

夜ご飯を食べ終わったらテトリス。コーヒーを飲んでテトリス。風呂から上がってテトリス

 

テトリス特有のあの音楽が休みなく流れた。

 

ある日わたしも暇で、父がテトリスをやっているのを横から覗き込んでいた。母もやってきて反対側から覗き込んでいた。この世でいちばん暇な家族である。

 

父は本当に熟練の動きでテトリスを捌いていた。甲子園いけるくらいの練習量なのだからあたりまえである。ボタンはテトリスによって摩耗されつつあって、決定キーは押すたびにキュッキュッと軋む音がした。だんだんテトリスのテーマ、コロベイニキが速くなっていく。父の指もいよいよ俊敏の高みに登っていく。生唾を飲んで見守るのは、テトリスに興じる男によって生活を守られている主婦とその子供。リビングは緊迫していた。

 

そのとき、それは起こった。

 

ビーン!という音がしたかと思うと決定キーがビヨーンと飛びだしバネがむき出しになった。あまりにテトリスに酷使され、ボタンが限界だったのだ。

 

それまで父の動きに従っていたブロックが制御不能になり、めちゃくちゃに落ち始めた。ストーンストーンとひたすら落ち始めた。

 

父が「ええいクソ!!!!!」と叫んで携帯を投げた。打ちつけられた携帯からはまだテトリスの音楽が流れていた。

 

この一連のことが数秒間で起こった。

 

わたしと母は、テトリスに狂い携帯をぶっ壊した男を唖然として眺めた。

 

それ以来、父がテトリスをやるのを見たことがない。今はスマホ大谷翔平選手について調べるのが生きがいのようである。

 

時代は変わった。

テトリス狂いはわたしに世代交代してしまぅた。

あなたはほうじ茶でアガれるか? おばさん群像劇『滝を見にいく』

「あんただっておばさんになるのよ」

 

 背中にぴしゃりと投げつけられた言葉を払いのけ、「なるもんですか」と思いながらずんずんと生きていくうちに、少女たちは瞬く間におばさんになっていく。「かわいいおばあちゃんになりた~い♡」と言う少女はいても、「ええかんじのおばさんになりてえ」とつぶやく少女はあまりいない。「わたしたちっておばさんだよね~」などと言っているアラサーのお姉さん方も実は自分のことを本気でおばさんだとは思っていない。彼女たちはどこかで「おばさん」はフィクションだと思っている。

 

 いつも「ほどの良いおばさん」として日々働いたり、近所づきあいをしたりしているわたしの母。

 しかしそれでも彼女は言う。

 

「心がね、追いつかないのよ。おばさんなのに」

「気持ちだけはいつでも若いつもりだからさ」

 

 そう、ハートの部分はたぶんあんまり変わらない。ちょっとシミができたり、首のところにざらつくイボができたり、傷の治りが遅くなったりするだけである。心が追い付かないのに、まあなんとなくおばさん然とした振る舞いが妥当なんだろうと思いながらおばさんというフィクションを演じるうちにおばさんとして円熟していく。昔もっていた鮮烈な思いとか、傷つきやすさとかそういう繊細な感情は、ほんのちょっとだけ心に隠しておきながら。みんなそういうおばさんに見まもられてきたのだ。

 

 おばさん然としながら、心にひっそりと少女を飼う。

 

 わたしはやっぱりそうなりたい。感受性が豊かすぎるままでは、とても80年も生きては行けない。何より心が不安定だと他人にやさしくできない。少しずつ心の感度を下げていって、ちょっとガサツでもやさしくおおらかなおばさんになりたい。でもどこかに繊細な部分も残しておいて、自意識過剰で傷つきやすい若者にも共感できるようでありたい。たまに自分の甘酸っぱいところをひっそりと取り出しておきたい。

 

 そういうおばさんになるためにひとつ必要なのは、たのしむ技術である。というより、「勝手にたのしむ技術」である。

 

 他人に自分の価値を求めるでもない、「何か楽しいイベントはないか」と騒ぐのでもない。ひとりで勝手に日々のことをたのしんで、心をうるおしている。気が沈むことがあっても、そういう日々の小さな楽しみで心を修復させて、やっぱりおばさんとして振る舞って他人を少し安心させる。

 

 そういう技術を盗めるのがこの映画『滝を見にいく』である。


映画『滝を見にいく』沖田修一監督による予告編

 

 前置きが長すぎますでしょう?しかもなんか話がつながっているんだかいないんだかよくわからないでしょう?きっとこれはわたしがおばさんになっても変わることがないのでしょう。

 

滝を見にいく

滝を見にいく

 

 

 この映画、簡単に説明するとおばさん7人が「紅葉を見て、滝に感激し、その後は秘湯で至福の時を過ごす」という内容のバスツアーに参加したはずが、業者の不手際により山中で迷い、一晩みんなでいっしょに野宿することになるという内容。

 

 ほんとうにこれだけ。7人のおばさんそれぞれのデティールがしっかり描かれていて、濃密なおばさんあるあるが楽しめる。

 

ameblo.jp

 この方のブログ、おばさん7人をしっかり講評していてよかった。

 

  • 腰に爆弾を抱えたクワマン(桑田さん)
  • クワマンと仲良しでオペラを嗜むクミ(田丸さん)
  • 山野草マニアで写真展への作品を出すために山に来たサバイバルスキルの高い師匠(花沢さん)
  • 師匠をリスペクトし山のルールに従う弟子のスミス(三角さん)
  • ぼんやりとした主婦のジュンジュン(根岸さん)
  • 夫に先立たれながらも彼に影響されて始めたバードウォッチングを続けているセッキ―(関本さん)
  • 昔水商売をやっていた感じのするユーミン(谷さん)

 

 この7人のおばさんが夜中に火を起こしてキャンプファイヤーをしたり、食料をゆるく探したり、なぜか少しだけはっちゃけて縄跳びをしたりするのをひたすら真顔で見る1時間半。一夜にしてけっこう衰弱するおばさんたち。

 

 これだけ聞いていると「観て楽しいのか?」と思うはずである。

 

 しかしなぜか楽しいのである。おばさん一人ひとりに愛を込めて描いているのがよくわかる。中途半端なズボンの丈感とか、サンバイザーとか、バスの中でなんかいろいろ食べているとことか、そういう「おばさん」然とした細かな描写が楽しい。おばさんのガサツな部分、下世話な部分、たくましい部分、もろい部分、憎めない部分、少女みたいな部分。さまざまなデティールが、笑いを誘ったり、切なくさせたり。

 

 いくつか大好きなシーンがある。

 

 セッキ―が山の中で夢を見て、枯れ野原の中に死んだ夫を見つけて「行かないでぇー!」と叫んで目が覚めるシーン。野原のなかをヨタヨタと走るセッキ―。消えていく夫の影。一緒にバードウォッチングを楽しんだ、最愛の夫。先にいなくなってしまった夫。セッキ―は悲しみを抱えながら、それでも呑気な感じのおばさんとして日常を続けていくんだと思うと切なくいとおしい気持ちになる。バードウォッチングを楽しんで自分の心をうるおしながら、悲しみをだましだましで生きていく。セッキ―に幸あれ。

 

 あとクワマンユーミンが山で迷子になったイライラからお互い攻撃的になって大喧嘩に発展し、結局夜中に一緒にヤニを吸うことで仲直りするシーン。二人の大人げない感じがとても人間らしくていい。(バイト先とかにいたら嫌だけど。)二人とも年季の入った吸いっぷりで、これまでの人生遍歴をうかがわせる。「一回ブチキレ合って、また仲直り」って、なかなか大人になってから経験できることではないと思う。一服がもたらした、交わらないおばさんどうしの人生を繋ぐかけがえのないひととき。

 

 最後に一番好きなシーン。

 かなり序盤、まだ山中で迷う前、クミが水筒を取り出しツレのクワマンと一緒に飲むシーン。

 

クワマン「それ(水筒)なに入ってんの」

クミ「ほうじ茶(クチャクチャと何か食べながら)」

 

クワマン「ナァ―イス(低音)」

 

 

 いかがだろうか。このシーンの味わいは実際に見てほしい。

 

 ふつう、人の水筒の中身がほうじ茶だったぐらいで「ナァ―イス」と言えるだろうか。アガれるだろうか。なんでもない水筒の中身のお茶にもちょっとした「差異」を見出し、たのしむ。これこそ、「勝手にたのしむ技術」の真骨頂ではないだろうか。

 

 大好きなエレファントカシマシの「悲しみの果て」という曲のなかにこんな部分がある。

 

部屋を飾ろう

コーヒーを飲もう

花を飾ってくれよ

いつもの部屋に

「悲しみの果て」作詞:宮本浩次 作曲:宮本浩次

http://j-lyric.net/artist/a001cc9/l00cb87.html

 

 乾いた心をうるおし、生きる力を取り戻させるのは、日々の暮らしにおけるほんのちょっとの「差異」である。いつものようにめぐる朝の、コーヒーの香りの微妙な違い、再現しようもない花のかぐわしさ。

 

 しかしおばさんくらいのたのしむ達人になると「コーヒーを飲もう」でなくてもよく「ほうじ茶を飲もう」でもいいのだ。充分アガれるのだ。もっとエスカレートすると「お白湯でも飲みましょ」になるかもしれない。そこまで来たらもう怖いものなしである。何もかもが輝いて手を振るだろう。

 

『滝を見にいく』、おばさんの群像劇として素晴らしいうえに、今後の人生の指針まで与えてくれた。

 

 わたしは今後ものすごいはやさで歳をとるけれど、目指すところはただ一つ。

 シラフでほうじ茶でテンションを上げられるおばさんになることである。

 

 

 

 

旅の恥をかき捨てると自我が崩壊する

 ついこの間、所用で箱根鉄道のとある駅に行った。博物館でひとしきり見学したあと駅のホームにたどり着くと、登山の装備をした楽しげな高齢者集団や、ツーリングみたいな恰好なのになぜか鉄道に乗ろうとしている中年集団などがわらわらと憩っていてにぎやかだった。

 

 当然だけど誰も知っている人はいない。

 

 わたしは「遠くまできたもんだ」と思いながら、自販機で缶コーヒーを買い、ベンチに座って「金属の味がする」と思いながら飲んだ。日差しが強く、黒ずくめのわたしには熱がこもっていて、頭がぼーっとした。

 

 赤いお菓子の箱のような電車がやってくる。この電車に乗って小田原についたら田舎のばあちゃんのために鈴廣のかまぼこでも買って、横浜まで帰ろうと思った。なのに身体が動かなかった。誰もかれもみんな楽しそうに乗り込んでいく。乗らなきゃと思うのに、とりもちでもついているかのようにベンチから尻が離れなかった。

 

 乗り込んでいく人たちに対して、「あ、いま膝に猫乗ってるんで」とまったくわかりきった嘘を心のなかで言いながら、赤いお菓子箱を見送った。

 

「ずっとこのままでいいかな」と思って動きたくなくなるときがたまにある。

 

 居酒屋のトイレで、男性が使ったあとに便座を上げっぱなしにしていることに気がつかず、尻が便器にすぽっとはまったとき。「いつもきれいにご使用いただきありがとうございます」という字を見ながら、「もうずっとこのままでいいかな」とほろ酔いの頭で思ったりした。

 

 ほかにもある。小学生のとき、アイスの実にはまっていた。

f:id:marple-hana1026:20181102214425j:plain

アイスの実 うらごしピューレ入り グリコ コンビニスイーツ日和!

 

 10年くらいまえのよそさまのブログから画像を拝借してきた。そうそうこんなのだった。このカラフルな冷たい玉がきっしりと入っているのが好きで、毎日のように食べていた。

 

 その日はアイスの実をコンビニで買い、我慢できずにすぐに開けて2つくらい食べて残りをカゴに入れて家路に急いでいた。小学生特有のあまり意味のない立ち漕ぎをしながら、急いでいた。しかし立つたびにカゴの中身のアイスの実が気になる。おいしそうなカラフルな玉たちがじりじりと溶けながら揺れている。

 

 気づくとカゴの方に手を伸ばしていた。指がちぎれそうなほどに、アイスの実を求めていた。

 

 するといきなりノーハンド運転になった自転車はバランスを失い、思わぬ方向に進んでいった。景色が変わった。電柱のグレーが視界を覆ったかと思うと、サドルから股間に強い衝撃が加わり、空が見えた。自転車は横転し、劇場版るろうに剣心佐藤健ばりのスライディングを決めて滑っていった。

 

 熱せられたアスファルトには、カラフルな甘い香りのする球体と、わたしが転がっていた。

f:id:marple-hana1026:20181102220025p:plain

 こうして寝っ転がっている間にもアイスの実はじりじりと溶け、膝からは血が染み出していくというのに、起き上がろうとは思えなかった。なんかちょっと素敵なひとときにすら思えた。頭と身体がつながってるんだかつながっていないんだかわからないけど、ぼーっとして心地よかった。

 

 あのときほど、「このままこうしていようかな」と思ったことはない。

 

 とまあ『失われた時を求めて』のごとくどうでもいい人生の断片の回想シーンが走馬燈のように頭を駆け巡って、ホームのベンチで一人死んだ目でコーヒーをすすった。どうでもいい断片である。だれもこんなこと知らないし、知らなくてもよい。

 

 思えばずっと暇な人間だった。暇な幼稚園生、暇な女子小学生、暇な女子中学生、暇な女子高校生を経て、暇な女子大生なのである。しかしインターネットにうといわたしでも、暇な女子大生はすでに名乗られ尽くされているので使用しないほうがベターだということを知っている。本当に暇な女子大生が「暇な女子大生」を名乗ることのできないこの世の中、「暇な女子大生」の再分配がなされるべきではないだろうか。違いますか。そうですか。

 

 なんだかやさぐれたので、ベンチから降りてちょっとウンコ座りをしてみた。ついでにリュックからパンを取り出してかじってみた。足元には飲みかけの缶コーヒー。そして何年かぶりにチッと舌打ちをする。

 

 自分史上最高のワルが出来上がった。普通は缶コーヒーに煙草であろう。そこをわたしはパンである。しかしこれは純然たるワルなのである。だってパンはチョリソーソーセージパンである。

 

 知らない場所で、知らない人がポツリポツリといるなかで、ワルになっている。

 

「いや、誰だよ」と脳内の誰かがツッコむ。

 

 わたしはその声を聞きながら「ずっとこのままでいいかな」と考えるでもなく考えている。 

 

 

 

 

その電車が銀河鉄道に変わるとき

f:id:marple-hana1026:20181028222527j:plain

電車に乗っているとき、ずっとこのまま居られたらと思うことがある。そう思わせる車両がたまにある。

 

他人の気配や視線というのは緊張をもたらすものだけど、不思議なくらいそれが無い車両なのだ。他人同士が絶妙な空気感で配置されていて、誰も各人をじろじろと眺めたり、詮索したりしない。大きな声でゴシップを話す人もいない。前髪の脂ぎった、いちゃいちゃの激しいカップルもいない。舌打ちをするおじさんもいない。ただそれぞれが、他人との境界線をふんわりと守っている。そして自分が誰であるかを忘れているかのような、ゆるみ切った表情をしている。ぼーっと、安定感のあるラクダに乗って砂漠を旅しているかのような表情。みんなが車両のその空気に包まれることによって、ようやく自分の輪郭というものを手にしているかのような、そんな感じである。

 

会社では高い役職をもっている人でも、はたまたフリーターであっても、ただまんだらけに行ってきたニートの人であっても、さっきまで会社で後輩をいびっていた女性社員であっても、育児が本気でめんどくさくなってきている主婦の人であっても、実は25世紀から来ている人であっても、それはその車両では何も意味をなさない。ただ「そこにいる人」としてただそこにいるのみである。そのときわたしも何者でもない。

 

そういうとき、自分に起こったすべてのことがとても遠く感じる。今朝床に落ちてるコーヒー豆を虫だと思って一人でビビり倒したこと、原宿で知らない人に頼まれて写真を撮ったこと、親族に莫大な借金があったこと、足の小指の爪が割れたこと、恋人からもらった手紙が素晴らしかったこと、生まれたこと。スケール大小のさまざまな出来事が自分から切り離されて遠くに行き、どれも等しく極小になる。なんの星座も作らないカスのような星になる。

 

その車両にいるわたしは同じ身体で体験してきたすべてのことを自分のことだと思えない。「女子大生」「アルバイト」「○○さん」「○○ちゃん」「年齢オブジョイトイさん」、すべての肩書きがはぎ取られてただのそこにいる人でしかない。それはまわりの他人も同じである。こんな車両にいて、課長でいられるわけがない。

 

そしてそれはびっくりするほど心地いい。

 

この社会では一貫した「自分」を持たないとやってられないのだと思う。でもそれはすごくキッツい。

 

「積み上げてきた経験」とか、「あの頃の自分がいたから今の自分がある」とか、情熱的な人は言う。彼らの人生というか成長物語は、切る度に顔がイケメンになっていく金太郎飴のようなものである。同じ顔ではあるけど、徐々にアハ体験的にイケメンになっていく。確実に成長していく。一貫した「自分」をもっている、あるいはもっていると思っているひとにはこうした成長があるのだ。

 

一方でわたしの人生は切っても切っても同じ顔が出てこない金太郎飴のようなものなのだと思う。その細長い飴は自分のこの身体だとして、それは揺るぎなくいつも在るんだけど、切ったときに出現する顔はいつも違う。カニエ・ウェストが出たあとに数千回切ると岡本夏生などが出てくるかもしれない。さっき考えていたことがもうつまらない。さっき嫌いだったことがもうおもしろい。さっきやっていたことも明日やるとは限らない。よって成長はない。

 

そんなめちゃくちゃで怠惰な金太郎飴でも、切られずに、断片を見せずにそのままゴロンと存在していられるのがそんな車両なのである。ここにいる誰も、わたしの断片を知らない。興味もない。見せる必要もない。だから心地いい。そして無数に存在する自分のあらゆる顔なんて、心底どうでもいい。どれもみんな遠く感じる。どうせ薄っすいスライスの顔である。

 

ほら、みんな円柱型の色とりどりの金太郎飴に見えてきた。金太郎飴が座ったり、つり革につかまったりしている。切ればどんな顔が出てくるかをお互い探り合おうともしない。

 

あれ、これってみんな死んでるんじゃない?ひょっとしてこれ、銀河鉄道なんじゃない?わたしの地元のセンパイ、宮沢賢治は「死者しか乗れない列車が銀河空間を縦横無尽に旅する」というぶっ飛び設定を100年前に思いついた変態の人なんだけど、センパイがいってたやつってこれなんすかね。

 

目黒線の元住吉と武蔵小杉の間に差し掛かると、グッとレールの高さが上がって電車が浮き上がるような感覚がする場所がある。このときわたしは「いよいよ離陸か?????」と思う。社会から隔離された金太郎飴たちを乗せて、東急目黒線は夕焼けの空に飛び立ち、銀河空間へ飛び出していく。ああもう街の灯りがあんなに遠くまで。もうずっとこのまま居られたら。

 

「○○ステーション、○○ステーション」

 

わたしは黙って電車を降りる。

 

 

 

 

 

父という名の野性

f:id:marple-hana1026:20181005203349p:plain

「ちょっと川の様子見てくる」

 

死亡フラグとして名高いこのセリフ、うちの父親は実際に言った。(ふつうに生きている)

 

毎年台風が来ると、川の様子を見に行って転落して死ぬ人がいる。こちらとしてはなぜそんなに川が気になるのか不思議でしょうがないけど、彼らからしたら何か抗いがたい衝動に導かれて川へ足が向かうのだ。

 

――川に行かなければいけない。川へ行きなさい。

 

それは野性の衝動とでもいうべきか。

 

小さい頃、大型台風のなか川の様子を見に行くと言った父を母と一緒に止めた。我が子の手を振り払い、父は愛車のダークグリーンエスクードに乗って消えた。窓にはビタビタと雨が打ち付けていた。「お父さん死ぬかもな…」と思った。

 

結局父は生きて帰ってきた。母やわたしは「台風のときに川の様子を見に行く人はおかしい」と小言を言った。すると普段縄文土器のように無口な父は、顔をぐにゃりと歪めて聞いたことのないくらいの大声で怒鳴った。

 

「アユ釣りの下見に行ったんだ!!!!口出しするな!!!!!!俺にかまうな!!!!!!」

 

あまりに怖かった。父の顔が崩壊して、縄文土器のするどい破片がこちらへ飛んでくるような感じがした。父に自然が乗り移ったんだと思った。

 

穏やかな気候と恵みをもたらしてくれる自然に安心しきり、未曾有の天災が起こればその凄まじい威力におののく。そして天災が過ぎ去れば、あの恐ろしさを忘れ、ふたたび安心しきってしまう。わたしの父への距離は、ちょうど自然との距離のようだった。

 

わたしはいつでも安心して生きていた。でもその安心を、父はときどき壊しに来た。

 

父は野菜でもフルーツでも魚でもとにかく旬の新鮮なものを、まるごと食べるのが好きだった。夏はとうもろこしやトマト、秋はぶどうやゆでた栗、冬はワカサギ、春はなんだっけ。たまに大きな肉の塊を燻製にして食べさせてくれた。わたしは父の食へのワイルドなこだわりが好きだった。小さい頃はとくに「食べ物をまるかじりする」ということを最高にかっこいいことだと思っていたので、ウッドデッキで父の横に座って汁を滴らせながらプラムやトマトを食べ、近所の友達に見せつけていた。父はそんなわたしに「お前は食への好みが俺と似ている」と満足そうだった。

 

しかし、父の食へのワイルドなこだわりは行き過ぎていた。

 

その日は山奥にある父の実家へ向かっていた。うっそうと茂る木々の中を、いくつものカーブを超えて登っていく。わたしは、結構スピードを出しながらも器用にカーブを曲がる父の運転に安心しきってくつろいでいた。すると父がいきなり「あっ、アレは…!!!」と言って、急に車を止め外に出たかと思うと、ものすごい勢いでガードレールの向こうの木に登り始めた。落ちたら死ぬ高さの木に、ためらいなく登り始めた。

 

怖かった。やっぱり父は命知らずだった。母が悲鳴を上げた。

 

木はあまり頼りがいのあるものではなさそうで、しなっている。父はそこにしがみつき、なにやら懸命に別の木に手を伸ばしている。

 

しばらく格闘したあと、父は心底くやしそうに戻ってきた。

 

「サルナシの実を、おまえたちに食べさせたかった…」

 

キウイフルーツの野生種ともいわれるサルナシは、稀少性が高く幻のフルーツと呼ばれている。父はその実をものすごい動体視力で発見し、わたしたちに食べさせようと命知らずの木登りをしたのだ。これは、人間の親子の在り方なんだろうか。つがいに必死で木の実を運ぶ野性の鳥のようではないか。

 

母曰く、つき合っているときからサルナシの実を食べさせようと木に登りだすことがあったらしい。しかし、これほどの危険を冒したのは初めてだったとも言っていた。わたしはあまりに濃い父の野性を目の当たりにして、足がすくむようだった。

 

そのほか、父はあらゆる衝撃体験をわたしたちにもたらした。

 

ある日、「クワガタを採るぞ!」と張り切る兄とわたしを、父はエスクードに乗せて湿った雑木林に連れていった。

 

林に入ると、なんだか違和感を覚えた。そこかしこが茶色いモザイクのように見えた。木々の緑は上に遠く、わたしと兄は落ち葉のようなものを蹴りながら進んだ。

 

「おとーさーん、ほんとにクワガタいるー?」

 

「いるんじゃーないか?」父は後ろから言った。

 

するとそのときボタボタボタッと何かが上から降ってきた。わたしたちの前に、腐って茶色くなったバナナのようなものが五つ六つ転がった。わたしたちは足を止めた。

 

よく見るとバナナはうねうねと動いていた。それは木々の養分を吸って育った、巨大なナメクジだった。ナメクジは高いところから落ちた衝撃で、腹をみせながらのたうち回っていた。

 

クワガタを採りたかっただけの幼い兄妹は泣き叫んだ。

 

あたりを見回すと、茶色いモザイクのようにみえていたものは全てナメクジだった。落ち葉のようにみえていたものもナメクジだった。そこかしこで隙間なく呆れるほど大きいナメクジがうごめいていた。そこはナメクジの森だった。

 

わたしと兄の泣き叫ぶ声が、木々にこだました。その声に反応するかのように、上からはナメクジが降り注いだ。こんなときこそ頼りにしたいのが父親である。父の方を振り向いてみると、

 

 

見たことないくらい笑っていた。

 

降り注ぐナメクジ、地面でのたうち回るナメクジ、木の幹でうごめくナメクジ。萩原朔太郎がこの光景に出会っていたら「竹」を「ナメクジ」に差し替えていただろう。そんな地獄絵図の中で父は笑っていた。水を得た魚のように、肉を得た獣のように。悲鳴と笑い声が共鳴するナメクジの森であった。

 

父はそばにある木を揺すった。するとおびただしい量のナメクジが降ってきた。「お前らもっとちゃんと粘着しろよ!」と今なら思えるけど、本当に心臓が止まるほど怖くてそれ以降の記憶がほとんどない。父が何を思ってわたしたちをナメクジの森に連れていったのか、今となっては謎に包まれている。

 

またあるとき「川に連れていく」と言われ、兄と一緒に無邪気についていった。季節は覚えていない。

 

連れていかれたのは岩のようなものに挟まれた、そこそこ大きな川だった。「なんか中国っぽい」と思った記憶がある。わたしと兄は水辺が好きなガキだったので、はしゃいで石を投げたり、水をパシャパシャして遊んでいた。

 

すると父が「あれ見ろ!!!」とうれしそうに叫んで呼び寄せた。隣に並んで川の上流を見たわたしたちは、目を疑った。

 

何十組ものカエルのカップルが、葉っぱに乗っかって交尾しながら流れてくる。カエルは見たところ拳くらい大きく、茶色くよどんだ色をしていた。そんなカエルが二匹重なって、おんぶみたいになっている。それが何十組も、しかも葉っぱに乗っている。カエルの間でそういうファックが流行っていたのだろうか。時々川の流れに翻弄されて、くるくると回ったりなんかしながら押し寄せてくる。壮観だった。

 

そのときはもう怖いというより、圧倒された。わたしたちの知らないところで、自然のなかでは本当に驚くような光景が繰り広げられているのである。父はそれをわたしたちに見せたかったのだろうか。

 

父によってもたらされた衝撃的な体験を回想してみた。あまりにぶっ飛んだ内容なので、自分の記憶に自信が持てていなかったんだけど、この間兄に聞いてみたら「それは全部本当にあったことだよ」と言われ、改めて鳥肌が立った。父はやはり自然そのもののようである。こうしてときどき恐ろしさを思い知らされる。

 

ただ、これを読んだ皆さんに言いたいのは、「ヤマナメクジ」で検索してはいけないということのみである。

 

 

 

 

 

 

 

ダイエー横浜西口店セルフレジの躁うつ感について

f:id:marple-hana1026:20181002002831p:plain

今はどうなのかわからないけど、横浜駅西口にあるダイエーのセルフレジのテンションが独特だったことを思い出した。

 

たいてい、セルフレジとは元気の良いものだ。どこかのいい声をしたお姉さんが「商品をスキャンしてください♪」と言ってくれる。セルフレジ用の声優さんとかいるんだろうか。わたしの知らない世界である。

 

なにはともあれ、ダイエー横浜西口店のセルフレジ音声は一味違う。レジ袋をセットし、お会計ボタンを押すとまずこうスタートする。

 

「いらっしゃいませ(ボソッ」

 

エッ?と思う。今なんつった??

 

このセルフレジ音声の暗さをなんと形容すればいいのか、わたしのボキャブラリーの薄さを憎むばかりだけど、とにかく陰気なのである。絶対にAmazarashiとか聴いてるでしょ、と思うような憂いを含んだテンションである。なんだこいつ大丈夫かと不安になってくる。

 

しかししばらくすると様子が変わってくる。

 

「商品のバーコードをガラス面に近づけてください(^^♪ バーコードのついていない商品は」などとご機嫌でのたまう。

 

声もいきなり変わる。さっきまでの陰気な鬱ボイスはどこに消えたんだ。わたしはさっきまでのおまえの方が友達になれそうな気がしていたよ。声も10歳は若返ったような感じで、ものすごく気分よさそうに指示を出してくる。完全に別人の声である。パン屋さんで働いていたとき、「とりあえずいらっしゃいませだけ元気に言ってくれたら最初は大丈夫だから」とアドバイスされたものだったが、こいつはまったくの逆。いらっしゃいませは陰気なのに、レジ打ちは元気いっぱいなサイコ店員である。

 

そしてその後意思疎通が難しくなっていく。

 

「商品をスキャンしてく…ヒャク…ナナジュウ…二……エン⤵商品を袋に入れ…ヒャク…ヨンジュウ…ハチ……」

 

次々に食い気味で指示を出してくるうえに、金額を言うところだけカタコト。怖い、怖いっす。あ、なんか今ベラベラしゃべりたい状態になってるのかなと思う。それでも最後はテンション高い状態で送り出してくれるし、「忘れ物はないか?」と親切にも聞いてくれる。

 

「ありがとうございました(^^♪」

 

という声を聞き、「調子が良さそうで何よりだわ…」と思いながらレジを去る。

 

しかしやつはまた次の客に言う。

 

「いらっしゃいませ(ボソッ)」

 

 

朝7時から夜11時まで、休みなくテンションを上げ下げしているダイエー横浜駅西口のセルフレジ。どうか皆さんご声援を。