ニートにハーブティーは要らない

ニートじゃなくてすみません

東北大震災における沿岸部と内陸部とのギャップ 「半分死んでいる」

揺れましたね。

 

わたしは東北大震災で甚大な被害を被った岩手県の内陸部の出身です。

 

その時は中学校の卒業式の準備をしていました。

建物が大きく揺れて、天井が落ちてきました。

家に帰ると犬がただならないくらい興奮していて、猫はどこかに隠れて出てきませんでした。

 

電気のつかない家で過ごしている間、「大変なことになったね」と家族と言い合いました。

 

あまり外部の状況も入ってこず、沿岸部が大変なことになっているのも知りませんでした。関西のほうでは、人が流されている様子も普通に映っていたそうですね。

 

わたしたちが沿岸部のことを知ったのは、少しあとの朝刊でした。

それでも字面や静止画で被害を知っても、あまり実感がわきませんでした。

 

なんだか蚊帳の外のような感じのまま、震災の時期を過ごし切ってしまったような気がするのです。甚大な被害を受けた沿岸部との心理的な距離が遠いまま。

 

上京して思ったのは、「震災のとき大丈夫だったの?」と聞かれたときに、とても後ろめたい気持ちになってしまうこと。もっとつらい目にあった地域や人がいて、自分はのんきなもんだったという半端な自嘲をしてしまい、微妙な空気にしてしまうようになりました。

 

多くの死者が出る出来事があったとき、「どうして死んだのは彼らで、自分ではないのだろう」という問いから離れられなくなるひとって結構多いと思います。わたしはそうです。

 

そういう終わりのない問いにとらわれてしまうと、今度は「なんで自分は生きてるんだろう?」と思えてくる。本来、人間が生きるのに理由なんてないはずです。こうしてわたしが生きて、ドーナッツとか食べてる状況にもまったく根拠とかはない。ただ、生まれてきたから生きるのです。

 

そこに問いを見出そうとしてしまう時点で、半分死にかけているのです。

 

 


ゆらゆら帝国 「ソフトに死んでいる 」

 

でも、「生きていることに理由なんてない」というのは本当のことであり、半分死にかけている我々はある意味「気づいてしまった」側ともいえるのです。

 

問題は、それからどう生きるかということ。