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ニートじゃなくてすみません

書評 『日常に侵入する自己啓発 生き方・手帳術・片付け』

 

何がわたしたちを焦らせるのか

こんな本を読んだのです。 

日常に侵入する自己啓発: 生き方・手帳術・片づけ

日常に侵入する自己啓発: 生き方・手帳術・片づけ

 

 

 

 

別にキャッチーな部分がどこにもない、半分学術書みたいな本なんですけど「自己啓発」という単語を目にしてすこし心がざわついたので手に取りました。こうして怠けて暮らしていて、ふと焦るような気持ちになるのにはこの「自己啓発」的な考え方と自分とのズレを感じてしまうからではないだろうか。以下書評です。

 

やたらと焦りに駆られるわたしたち

 

 人生死ぬまで暇つぶし、と思って無目的に、向上意欲もなしに生きることはこの世では「怠惰」とされ、ひんしゅくを買うものであるらしい。そのように生きることはわたしにとって永遠の憧れであるが、現実的には厳しい。寅さんや落語の若旦那が魅力的に映るのはフィクションの世界においてのみである。現実世界では、あまりに「怠惰」だとヤバい奴扱いされるし、当人も焦ってしまう。きっとわたしも気が小さいから、そんなふうには生きられない。

 

「自分の人生はこれでいいのか?」という不安に無縁な人はほとんどいないはずであり、この本のテーマである「自己啓発本」の売り上げはそのような人々の「焦り」によって支えられているといっても過言ではない。この本は、「自己啓発本」の主張の変遷や需要のなされ方を社会学的に分析しつつ、わたしたちの生きる地盤としての近代的思考を問い直す、身近なものを扱うようでいてなんだか意外とビッグな本なのである。

 

「焦り」は他者との比較から生まれる

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「焦り」はそもそも他者がいるからこそ生まれるものである。自分より充実していそうな他者、優秀そうな他者を見たとき、人は自らを優劣の構図に落とし込み、焦る。そして焦った挙句、どうするかというと他者との「差異」を作り、卓越しようとする。では何をもって他者との「差異」を生み出すべきか、その通俗的指標を三十年以上にわたって生産・流通させ続けているのが「自己啓発本」なのである。いわばアイデンティティを求める者の駆け込み寺みたいなものだろう。

 

自己啓発本」の手法

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では一体「自己啓発本」にはどのようなことが書かれているのか。読んだことのある人はわかると思うが、ひたすら「日常」にフォーカスするのである。「日々の生活をおろそかにしていませんか?」という問いかけは、誰の心も打つだろう。日常の些細な営みに対する心理的な働きかけが積み重なって、他者を大きく引き離した「自己」が形成されるのだという主張が繰り返し繰り返しなされる。

 

著者はこの「自己啓発本」の特徴を、フランスの社会学ブルデューが用いた言葉「ハビトゥス」によって説明しようとする。「ハビトゥス」とは、社会的に獲得された自覚を伴わない性向の総体であり、ゆえに属する社会的階層によって異なるものである。個々人が獲得した「ハビトゥス」は、それぞれの慣習行動を決定づけるものとなり、それによって社会的階層の格差がより強固になるという構造的な問題を指摘したのがブルデューであった。このブルデューの論と真逆なのが「自己啓発本」による主張である。

 

自己啓発本」は読者が置かれている社会的階層や財力はいっさい無視し、「大切なのは今。日常をどう過ごし、どんなハビトゥスを獲得するか、それがあなたを卓越した存在に導くのだ。」という主張を実体験やそれらしい実験結果を交えながら展開していく。「ハビトゥス」を一から作り上げ、それによって社会的に上に行こうとする姿勢を提案するのが「自己啓発本」なのである。

 

男も女も他者との「差異」を目指している

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日常へのコミットメントを通して他者との差別化を図ろうとする姿勢は「自己啓発本」に共通することであるが、男性向けと女性向けの年代本の違いも本書において分析されている。

 

男性向けも女性向けも、年代ごとに分岐点が設けられ、焦りをあおるような文句が全面に出される。男性の場合は、現状への焦りをムチにし仕事における卓越を目指す方向に向かうのに対し、女性の場合は「自分らしさ」を磨くことによって加齢や仕事・結婚への焦りを鎮静化する方向に向かう。

 

図式においては対照的な両者ではあるが、実は他者との「差異」を目指す姿勢はどちらも変わらない。ナンバーワンを目指すか、オンリーワンを目指すかという違いはあれど、「他者から見て少しでも特別でありたい」という欲求をともにしているのである。
 

「手帳術」の時間感覚

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 男性向けの年代本の志向と似通ったものを見て取れるものとして、著者は「手帳術」を挙げている。かつて「手帳術」ブームがあって、「仕事ができる人のスケジュール管理」だとか、「手帳の使い方で仕事に差がつく!」といった本が書店に並んでいた。

 

 時間をマス目状に区切り、予定を書き込み、特定のスパンでの目標を打ち立てていくことで仕事の効率化を図る近代的「手帳術」は、仕事での卓越を目指す男性向け年代本と相性抜群といえる。この効率化を目指す類の「手帳術」における時間感覚は、まさに「量的」といえ、この近代的な時間感覚がわたしたちの「焦り」に直結しているのではないだろうか。

 

パパラギ』における文明人の時間感覚とわたしたち

 

 近代的な時間感覚だとか、「量的」な時間感覚だとか、「手帳術」的な時間感覚がどうのとか、わかりづらいことばかり言ってしまった。(どれもほぼ同じ意味です)

 

この時間感覚の異常さを語るために、かつてはじめて白人たちの「文明社会」に触れたツイアビさんの言葉を借りよう。「パパラギ」とは「白い人」、「外国人」の意である。この本では、南海のサモアの酋長ツイアビがヨーロッパを訪れて見た「パパラギ」について語るという形式で、西洋文明の批判が展開される。

 

 

パパラギ はじめて文明を見た南海の酋長ツイアビの演説集 (SB文庫)

パパラギ はじめて文明を見た南海の酋長ツイアビの演説集 (SB文庫)

 

 パパラギは、丸い金属と重たい紙が好きだ。死んだくだものの汁や、豚や牛、そのほか恐ろしい獣の肉を腹に入れるのが好きだ。だが、とりわけ好きなのは、手では決してつかめないが、それでもそこにあるもの――時間である。パパラギは時間について大さわぎするし、愚にもつかないおしゃべりもする。といって、日が出て日が沈み、それ以上の時間は絶対にあるはずはないのだが、パパラギは決してそれでは満足しない。

そう、彼は日々の新しい一日を、がっちり決めた計画で小さく分けて粉々にすることで、神と神の大きな知恵を瀆してしまう。柔らかいヤシの実をナタでみじんに切るのとまったく同じように、彼は一日を切り刻む。切り刻まれた部分には、名前がついている。秒、分、時。秒は分よりも短く、分は時より短い。すべてが集まって時間になる。分が六十と、それよりずっとたくさんの秒が集まって一時間になる。

 

 この素朴な語りに耳をすませば、現代人が信じて疑わない時間の在り方が揺らいでくる。時間を区切り、効率化を目指し、疲弊し、「一日が48時間になんねえかなー」などと願うことの愚かさ。でももう後戻りできないところまで来てしまった。ツイアビ、なかなか鋭いな。

 

と、思いきや

パパラギ』(: Der Papalagi)は、1920年ドイツで画家で作家のエーリッヒ・ショイルマンによって出版された書籍である。ヨーロッパを訪問したサモアの酋長ツイアビが帰国後、島民たちに西洋文明について語って聞かせた演説をまとめたものとしているが、実際はショイルマンの手によるフィクション偽書)である[1]

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%91%E3%83%91%E3%83%A9%E3%82%AE

 

ウソかよ!!!!

 

ショイルマンという人、とんでもないウソつきのようです。とはいえ、ここまで気合いの入った西洋文明批判ができるというのは、なかなかにすごいこと。近代的な時間感覚に対して、強烈な違和感を抱いていないと書けない文章でしょう。時空を超えて仲間を見つけた気分です。

 

では、もとの話題に戻ります。

男と女は時間軸のスケールが違いすぎるだけ 

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 本書においては、「手帳術」的な時間感覚に、男性の「仕事効率化」志向があてはめられて論じられている節があるが、女性だって実は人生全体を量的な時間によって区切られており、そのことに対する無意識の「焦り」を常に抱いているのではないかと個人的には感じる。

 

 「遊んでられるのも若いうちだよねー」と言うのも、結婚に焦るのも、同窓会までに必死で痩せようとしたりSKⅡをライン買いしたりするのも女である。初潮から始まり、子を産むことができる体力的なリミットがあり、それに伴う結婚適齢期があり、更年期障害になり、ついには閉経する。

 

 そうした生物学的、また社会的な節目で区切られた一生を、若いころの多彩な恋愛や幸せな結婚生活、育児、充実した老後で埋め尽くし、他者よりも幸せな「自分らしい物語」を作り上げようとする女の在り方。

 時間をマス目状に区切り、余白もないほどびっしりと予定をうめ、仕事を効率的に進めて「デキる男」としての自分を作り上げようとする男の在り方。

 

結局時間軸のスケールが違うだけで、どちらも区切られた時間の中でじたばたとあがいているのである。

 

自己啓発をひもといて


「限られた時間」、「一度きりの人生」、これらは「自己啓発本」でよく見かける言葉だが、近代的な時間感覚のなかで他者から抜きん出ようと「焦る」わたしたちの心にはグサりと来てしまう。本書は「自己啓発本」をとりまく諸状況を社会学的に緻密に分析したものであり、とくに「自己啓発本」自体に対する痛烈な批判がなされるわけではない。しかし著者の分析によって、いかにわたしたちが区切られた時間のなかで焦らされているか、他者との差異化に捉われているかがあぶり出されることとなった。

 

我々はもうすっかりパパラギである。

 

 

牧野智和『日常に侵入する自己啓発』読書メモ集

https://togetter.com/li/1245779

 

togetterに感想書いている方もいました。