ニートにハーブティーは要らない

ニートにハーブティーは要らない

思ったことを書いています

他人の言葉を摂取して生きる

文章を書いているときや話しているときに、つい独特な言い回しをしてしまい、「独特ですね」と言われることがある。しかしそれは思い返してみれば、人生のどこかであった誰かの模倣であって、自分オリジナルなものではないのである。

 

中学校のときに仲が良かったTちゃんも、独特な言葉を使う人だった。

 

私たちは同じクラスで同じ部活、暇さえあればずっとしゃべっていたのでTちゃんの独特な言い回しを四六時中浴びているような感じだった。

 

あるとき、わたしとTちゃんはクラスにいる不良の男子についてしゃべっていた。

その彼は授業中に時々ドアを蹴って出て行ったり、学校にこっそりタバコを持ってくるようなプチ不良だった。クラスのほかの男子がおとなしいもんだから、彼は逆に浮いていていつもどこかさみしげだった。

 

その彼についてあーだこーだしゃべっているときにTちゃんはふと

 

「スパイスだよね」といった。

「はい?」というと「スパイスじゃんね」と答えた。

 

どうやらTちゃんは、平和なクラスにちょっとしたドラマティック感を演出してくれる彼の存在を「スパイス」であると言いたいみたいだった。なるほど。たしかに何も起こらない平和なクラスで、たまに彼がキレるとちょっとしたお祭り感があった。

 

しかしTちゃんはあらゆる場面で「スパイス」と言うようになった。

わたしの靴下が赤だったときも「スパイスだね」

誰かが珍しく面白いことをいったときも「今日スパイス効いてるね」

 

 

このTちゃんのスパイス集を近くで聞いていて、「スパイス」という言葉が実に豊かなイメージを持っていることがわかった。

わたしはスパイスと聞くと脳にまずこんな色が浮かぶ

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この色の上をいろんなものや人が横切っていく。

あぐらかいたインド人や、カレーのランプみたいな器、ショッキングピンクの蓮の花、ダーシャシュワメードガート、ダルシム。こんなヘンテコなイメージと、目の前で起こっている何事かが、ただ「スパイス」という言葉のみによって接続されることにゾクゾクした。

 

まあ、わたしが勝手にTちゃんの多彩な「スパイス」使いにゾクゾクしていただけであって、なにかアクセントになるようなものにたいして「いいスパイスだね」ということは別に変なことじゃないのである。でもTちゃんが言うときのあの何とも言えないドヤ顔とスカした感じも妙にツボで気に入っていた。あえて「よくスパイスって言うよね」とは指摘しなかった。やめてしまいそうだから。

 

もうTちゃんとはほとんど会わなくなったけど、Tちゃんの独特な言葉遣いが自分にも染みついちゃっているなと時々思う。平均よりは「スパイス」という語を使う回数が多いほうだと自負している。

 

ついでに言えば、わたしはよく「土俵」という言葉を使うらしい。

 

「同じ土俵では戦えない」

「そもそも土俵が違う」

「コンプレックスをあえて土俵に上げる」

「土俵入りするような気持ちでいく」

 

力士より言ってるかもしれない。わざわざ「土俵」って言わなくても伝わるような場面でも言ってしまう。もうこれは不治の病である。

 

おそらく「土俵」を好んで使う人にどこかで接してきたのだろう。誰だかはわからないが、その人はいまわたしのなかで「土俵」として生きているのである。実際にも生きているだろうけど。

 

こういうわけで、わたしの使う言葉はいままで出会ってきた人の言葉のパッチワークみたいなものである。Tちゃんも「土俵の人」も、わたしが書いたり話したりする言葉の中で生きて、踊り狂っている。