ニートにハーブティーは要らない

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岸政彦『断片的なものの社会学』 ある一瞬の解脱

 とある男子大学生の怒り

r46abfcfd77x7me05se181.hatenablog.com

すこしインテリっぽい男子大学生がハイペースで日記を公開している、わたし得なブログがある。そんな彼が、ちょっと怒っていた。引用されたくなかったらごめんなさいね。

 

一人の女性が「女性はみんな...」とか、ただの男性が「男は〇〇されると喜ぶ」なんて言っているのを見ても、違和感を覚える。本当に小さいことなのかもしれないけど、個人の話に説得力を持たせるために存在しない不特定多数の他者を持ち込むのは、これまた卑怯だと思う。そもそも、「みんな」の話をすること自体に、うーんという感覚を抱く。
「みんな」の話というのは、必ず誰かを排除している。

 

「みんな」の話は、大多数の声を際立たせるためのもので、少数の声は異質なものとして流される。

 

見えない、大きな力にねじ込まれて、個人の意見が踏みつけられる。アイヌ語に関する報告書(文化庁のホームページに載っていた)に書かれている言葉を覚えている。「踏んでいる方は、踏まれている方の痛みがわからない」。

 

一般論(に見せかけたでたらめ)を声高に叫んで、個人の意見を踏みつけること。個人に何らかのレッテル貼りをして、そこからはみ出している何かを封じ込めること。彼はそういった暴力に怒っている。わたしはこれに、半分共感している。

 

2chのまとめを見るのが億劫になったのも、「ホンマでっかTV」や「スカッとジャパン」をみてなんだか疲れるようになったのも、実はこういった暴力が無邪気に繰り広げられているからだ。

 

しかしわたしがそういった暴力に、このブログの彼の半分しか怒れないのは、自分も暴力の側にまわりうると思っているからだ。リテラシーが培われる前の幼少期から、さまざまなバイアスがかかった言葉を吸収してきた。なんとなく無意識に自分をマジョリティだと思い込む癖も抜けきっていない。変わるのは一生かけても難しいだろう。

 

まだそれに自覚的なだけマシかもしれない。でも自覚的なだけに、他者と関わることにより難しさを感じてしまう。どうすれば傷つけずに、排他的にならずに関われるのだろうか。

 

半身を暴力側に浸しながら、小さな声を聴こうとするこの苦しさに、そっと寄り添う本がある。社会学者岸政彦さんの『断片的なものの社会学』である。この本を読んでの書評を載せようと思う。

 

断片的なものの社会学

断片的なものの社会学

 

 

ずいぶん多筆だと思われるかもしれないけど、けっこうまえに書いたやつです。

 

書評『断片的なものの社会学』 ある一瞬の解脱

 

 いま、「一般論」的なものに傷つけられているひとは多いのではないだろうか。恋愛は異性愛者であることを前提にして語られ、結婚したら子供ができるのが当たり前であるように言われ、親はふたりいる方が良しとされる。男は車が好きで、女は美容に関心がある。誇れる仕事をして、常に成長を目指さなくてはいけない。文系より理系の方が役に立つ。不倫したもの、不祥事をしでかしたものは社会的に制裁を受けるべきだ。


 そんなことはもっと昔から言われていたのかもしれない。しかしこんな「一般論」に、街も本もタイムラインも掲示板も埋め尽くされていると、参っちゃうものである。そんな「かくあるべし」の数々の中身は空虚なものなのに、きりきりとわたしたちを締めつけている。みなどこかしらはみ出しながら、隠して生きているのかもしれない。気にしていないと思っても、気にしてしまうものである。


 そして「一般論」を作り上げるのに一役買っているのが社会学である。今ある「当たり前」を覆そうとする姿勢ももちろんあるとは思う。しかし、多くの事例を調査、分析して抽出した類似性をもとに「一般化」してきたのが社会学である。その過程のなかで削ぎ落とされたささいな事柄、何にも結びつかない他愛ないことばや時間は、一般化もされず、名づけられもせず、ぽつんと置き去りになっている。


 本書の著者は、そんな「断片的なもの」に惹きつけられてしまう社会学者なのである。著者の言葉でいうと、「社会学者失格」である。本書では、社会学からこぼれおちた、あらゆる人のあるいは著者自身の人生の断片が、慎重に選びぬかれたことばでつづられる。


 著者の調査対象は、いわゆる「普通」の人、沖縄の人、ニューハーフ、風俗嬢、摂食障害の人、大阪の街のギター弾き、異国の刑務所に十年いた元ヤクザ、在日韓国人など多岐に及ぶ。そのなかには、ただ普通に存在しているだけで「マイノリティ」と言われてしまう人々がいる。彼らは本来、自分の指向や出自について言及する必要などないのに、そうするのが普通のように言われ、そしてそのことがばれると隠していたかのように扱われる。彼らを「マイノリティ」として分析し、一般化するのは「暴力」ともいえる。「マイノリティ」でなくても、語り手の人生からある部分のみを抽出して分析対象にするのもまた「暴力」である。


 しかし本書では、著者は自らの日ごろの「暴力」から解放され、調査対象の語りそのものの呼吸、調査の合間に起きた不意の出来事、語りを聴きながら脳内に焼き付いたその人の人生の一場面などを拾い上げ、鮮明に描いていく。そこにはなにもアカデミックな記述などない。ただ分析できない「無意味」な事柄が、不思議な鮮烈さをもって迫ってくるのである。
       

お父さん、犬が死んでるよ。
沖縄県南部の古い住宅街。調査対象者の自宅での、夜更けまで続いたインタビューの途中で、庭のほうから息子さんが叫んだ。……語り手は一瞬だけ中断した語りを再び語り出した。

 


 また、著者の人生の断片も、つぶさに語られる。ずかずかと家に押し入り、花をいっぱい飾って立ち去り、その後連絡をとっていない教え子のこと。友人の美術教師がつくる、やさしい顔立ちの土偶。著者自身が無精子症だとわかり、連れ合い(著者は「妻」と呼ばない)が泣きじゃくる最中、どうやって自虐のネタにしようかと思案してしまったこと。もっとくだらないこと。
 

イランだかイラクだかの話をしていて、筑紫が「そこでけが人が」と言ったとき、天野が小声で「毛蟹?」と言った。

筑紫が「いえ、けが人です」と答え、ああそう、という感じで、そのまま話は進んでいった。

 


 こんな無意味な断片に価値はあるのか、と問う人がいるかもしれない。しかし、その断片は断片として、なににも与せず、そのまま存在し続けるのである。


 「一般論」はある一つの物語をベースに展開される。例えば勧善懲悪の物語。男女が惹かれあう物語。人類の進歩の果てに、輝ける未来を夢想した物語。そうした物語の中で、価値が置かれるのが「善い行い」であり、「幸せ」であり、「効率」である。しかし時が流れ、状況が変わり、物語が成立しなくなると、価値が置かれてきたそれらの空虚さが浮き彫りになってしまう。無理やり与えた意味・価値は姿を変え、はかなく消えるのである。


 この虚しさが蔓延しているのが今である。毎日多くの人が「死にたい」と呟いているのだが、一時間後にはかわいく塗った爪を披露したり、スタバの新作を飲んだりしている。彼女らは案外本気で一瞬死にたいような消えたいような気持ちになっているのかもしれない。自分がしてきたこと、していること、するであろうことの無意味さに絶望し、あちこちから違うことを言われ途方に暮れているのかもしれない。


 虚しさに半分気が付きながらも、多くの人は生きる指針を一般的な価値観に求めてしまう。また、一般的な価値観に守られながらの生活は、居心地がよく、幸せであるのだ。そうして自分がマジョリティであることを確かめたくて、安全なところから批判をする。水原希子がやたらと「韓国」だの「ブス」だの言われているのを見るとやるせない気持ちになる(古いっすね)。社会の「当たり前」の幸せは、誰かを疎外することで成り立ってしまう。


 この間ある女の子に「彼氏はいるの?」と聞いたら「ああ、恋人ね」とやんわり言い直されて、「しまった」と思った。わたしもやはり内省が必要だ。もともとわりかし「暴力」的なほうなので、なおさら内省が必要かもしれない。
 

 だましだまし生き、誰かを傷つけ、傷つけられるより、著者のように内省的な、無意味を愛する人になるほうがいいだろう。無意味な断片を見つめるその瞬間、「一般論」にがんじがらめにされる苦しみから解脱できる。