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さくらももこの親子観について

さくらももこのエッセイ 『そういうふうにできている』

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 さくらももこが亡くなった。まるちゃんよりエッセイが好きだった。ブログを読んでいると結構そういう人がいて、なんとなくみんな文章がさくらももこっぽいから微笑ましくなってしまう。わたしもちょっと真似しているところがあるかもしれない。

 

 さくらももこのエッセイは、最初はひーひー笑いながら読んでいたけど、すこし嫌になってしまった時期があった。なんだか文章から漂う庶民的なみみっちさや僻みっぽさが、同族嫌悪的な感情を刺激してくるので疲れてしまうのだ。それでも今こうして読み返すとやっぱりおもしろい。とくに『たいのおかしら』や『さるのこしかけ』が好きだ。この二冊では庶民的なみみっちさも僻みっぽさも、絶妙なスパイスになっていてカラッと笑える。

 

 笑えるエッセイ本は数あれど、本気で雷に打たれたような表現に出会った一冊がある。『そういうふうにできている』である。

 

そういうふうにできている (新潮文庫)

そういうふうにできている (新潮文庫)

 

 

親子ってなに?

 親子ってなんだろうと考えると止まらなくなる。親子について考えるとき、日本はとことん儒教的である。社会的に、親は敬うものであるとされている。親のほうでも「育ててやったんだから」と言ったり、親孝行を期待したりする。そこでは親はひとりの人間というよりは、「親」という大きな概念のようになっている。

 

「父の日」とか「母の日」に乗り気になれないのは、みんなが「父」とか「母」というなんだか大きな存在に対して一斉に感謝して品物を贈っているという状況が、なんだか異様だと思ってしまうからだ。

 

 わたしが母を好きで尊敬しているのは、「母」だからではなくて「ゆきこ」として生きてきたそういう人間だからだ。それはとても幸せなことなのだと思う。わたしがこの世にポンと産み落とされて、最初に育てる役割をした「ゆきこ」という人間とたまたま相性が良かったということだ。結局親子関係といっても、人間関係なのだと思う。

 

 逆にこの世には、親と限りなく相性が悪かったことにより、自分の生い立ちを呪いながら生きる人もいる。このような人たちが苦しいのは、「親は子を無条件に愛するものだ」ともっともらしく決めつけて言う人がいるからである。親も子も、ただの人間同士である。ただ子供の方が幼いうちは身体も知能も未発達で、社会的にも成熟しようがないので親に環境を整えてもらう必要があるというだけである。そういう役割を全うする親もいれば、子供に対して愛情がわかずに、すこしも世話をしない親もいる。もしくはそういう役割を過不足なく行うだけで、子供に対してさして愛情を抱いていない親だっている。

 

 「親」は子供にたいして無条件に惜しみなく愛情を与える大きな存在だと思われているが、実際の親はただの人間で、子供を愛したり愛さなかったりする気まぐれで不確かな存在なのである。

 

さくらももこの子供への考え方

 こんなふうに言うと、親子というものを悲観的に考えていると思われるかもしれない。でもそうは思っていない。さくらももこの言葉に出会ったからだ。何度読んでも、腑に落ちるのだ。

 

 『そういうふうにできている』は、さくらももこが初めて子供を妊娠、出産したときのあれやこれやをおもしろおかしく、ときに哲学的につづった名エッセイである。このときのさくらももこの文章に説得力があるのは、生まれて来た赤ちゃんを見るなり盲目的な愛情が大爆発するんじゃなく、至極冷静だからだ。 

 

 あわてながら、私は子供に対する自分の愛情というものについても冷静に観察していた。この子に対して、まだ愛情らしき感情がワッと湧き起こってこないのは単に私に余裕がないだけであろうか。

 

 私達は本能の中にプログラムされている種の存続という任務を忠実に遂行しているのだ。子供は誰から教わらなくとも乳を吸う手段を身につけており、私もこの生命を死守しようとしている。愛情とは違う。似ているが別モノだ。

 

 いわゆるマタニティハイとは無縁である。さくらももこは、この赤ちゃんが自分の体のなかから生まれて来た不思議を静かにみつめ、これからの自分と子の関係性について真剣に考えている。さくらももこは大きな存在である「親」になる気は全くなくて、初めから人間対人間として子供に接しようと思っていたのだ。

 

 さくらももこは子供が出てきた自分の身体のこともとくに特別なものだとは思っていないようだった。ただ、その子が地上に降り立つための通路に過ぎなかったと、そう言った。その子は母体の分身でもなんでもなく、一個の独立した魂をもつ存在であると言った。

 

もしかすると彼の魂は経験豊富で私より大人だったりするかもしれない。だがこの世では新参者だ。

 

”家族”という教室に”お腹”という通学路を通って転入生が来たようなものだ。遠い町から転入してきた彼を、クラスメイトの夫と私は歓迎し、今後仲良くしていこうと思う。彼が知らないことが教えてあげ、いろいろな体験を共にし楽しく過ごすであろう。お互いの絆は固く結ばれ、かけがえのないものになるとも思う。

 

だがお互いに一個の個体なのだ。

私は”親だから”という理由でこの小さな生命に対して特権的な圧力をかけたり不用意な言葉で傷つけたりするような事は決してしたくない。

 

 

 この考え方に、今でもずっと共感している。自分に子供が生まれる想像をたまにして不安になるけど、このさくらももこの言葉を思い出すととても気持ちが楽になる。母親のことが大嫌いだったあの娘も、この部分を読んでもらったら「ほんとうにその通りだね」って言っていた。人の考え方は変わりやすいものだから、さくらももこさんが最期までこんな気持ちでいたかはわからないけど、この言葉はたくさんの人の心を救うと思う。

 

日を追って、子供との絆は深まり、もっともっとかけがえのない存在になる事は確実に予想されるが、それぞれの個体は各人のものでしかないという”距離”はこのままであると思われる。もっともその距離は、”オナラのできる間柄”であるという非常に近い距離であろうが。

 

 わたしがおならをすると、空気清浄機より先に母のゆきこは「ン???」と言う。わたしもまたオナラのできる間柄のもとで、クラスメイトのような親にいろんなことを教わってきた。

 

 たまには感謝を伝えたくて、まったく「母の日」でない日にゆきこに口紅を買って帰省した。母の日だよと渡すと、ぱぱぱっと口紅を塗って「ゆきこ、こんな良い口紅はじめて~」とバレエもどきの変なダンスを踊った。この自分のことを「お母さん」ではなくて「ゆきこ」と呼ぶのがうちの母の奇妙なところであり、個性である。

 

 そんな母に、正しく感謝して向き合えたのはさくらももこの言葉のおかげだと思っている。

 

 ご冥福をお祈りします。