ニートにハーブティーは要らない

ニートにハーブティーは要らない

よく深夜に更新します

まだ冷凍都市で消耗してるの?

f:id:marple-hana1026:20180902195203p:plain

 

*1

 

 

と、かつての向井秀徳は言った。

 なにかを布教させたい人間というのは、同じ言葉を繰り返し繰り返し唱える。

 向井秀徳に関していえば、わたしたちが住む世界を冷凍都市とし、批判し続けてきた。冷凍都市の正確な意味についてはファンですらよくわかっていない。

 

繰り返される諸行無常 よみがえる性的衝動

冷凍都市の暮らし、行方知れずのアイツ

いつのまにか姿くらまし 

https://www.uta-net.com/song/212673/

 

 このフレーズを、何度も何度も唱えてきた向井秀徳。何を布教したいというのだろう。

 これだけではまったくもって意味がわからない

 

冷凍都市の攻撃を 

我々は酒飲んでかわす

http://j-lyric.net/artist/a0089b3/l004aec.html

 

 とりあえず批判的なことだけは確かだった。 

 

 向井の書く歌詞は脳みその中身をそのまま垂れ流しているかのように意味不明で、こちらへのメッセージのようなものはあまり見当たらない。ほとんどが主観的な情景、もしくは自問自答である。先ほど引用した「繰り返される~」はナンバガ時代の『EIGHT BEATER』以来、何度も歌詞に登場してきた。擦り切れるほど繰り返されて、意味は消えていった。リスナーもお馴染みの言葉の羅列として、あるいは単なる音としてそれを聴くようになった。しかしZAZEN BOYS後期になって、その一つ覚えの反復に続きの部分が出てきた。

 

頭どんだけ 狂っても

頭どんだけ 狂っても

くりかえされる諸行無常 よみがえる性的衝動

くりかえされる諸行無常 よみがえる性的衝動

人がボンボン死ぬこの世 生の実感を持っとこう

ZAZEN BOYS CRAZY DAYS CRAZY FEELING 歌詞 - 歌ネット

 

 はじめてこちらに「どうすべきか」が提示された。なるほど「生の実感」をもてばいいのね。これが冷凍都市から逃れられないわたしの生きる術なのね。もし向井秀徳が宗教ならば、「生の実感」教かもしれない。なんか向井秀徳って、歴史上の人物みたいな名前だし。

 

 ナンバーガール後期の向井は、冷凍都市と自らの間に厳然たる境界を維持していた。冷凍都市に潜伏しながら、都市を破滅に追い込もうとするテロリストのごとく、うずまく怒り、蘇る性的衝動をぶつけていた。血走った目玉で都市を見つめ、銃より刀で、刀より6本の狂ったハガネの振動で、冷凍都市の欺瞞を突き刺そうとするテロリストだった。冷凍都市に対して攻撃的であることによって、必死に境界線を保とうとしているようだった。

 

 しかしもう向井は変わった。すっかり冷凍都市にも慣れてしまったようだ。ZAZEN BOYSになったあたりのインタビューで、そんなことを言っていた。*2しかしそれは冷凍都市への敗北ではない。小市民にできる戦争への最大の否定が、普段のつましい暮らしの習慣を維持することであるように、向井秀徳にとって冷凍都市への否定とはテロを仕掛けることではなく、冷凍都市にいながら「生の実感」をもつことだったかもしれない。

 

諸行は無常である。それが繰り返されている。そのあとに、「それでも甦る、性的衝動」と続くんですけど。無常である、いつかはなくなる。ただ、本能として性的衝動は湧き上がってくる、と。それがずっと繰り返されている中に今生きている、っていうことなんですよね。

死ぬということを考えて、先に死が待っているということを感じながらそこに向かっていくのではなくて、それよりも、今現在生きている実感というのを少しでも持ちたい、という。

modern fart | vol.03 死を考えながら生きるより、生の実感をつかみたい

 

 では「生の実感」とはなんなのか。頭どんだけ狂っても、持っておかなければいけないそれは一体どんなものなのだろうか。しかし「生の実感」なんてものは他人から教わるものではないと思う。向井秀徳としてしか感じられない「生の実感」があれば、わたしたちそれぞれにしか感じられない「生の実感」もある。身体も違えば心も違う、環境も違う。吹かれている風も違う。

 

 向井秀徳の書く歌詞は、意味はわからないのだけどまるで身体や意識を共有しているかのように思わせる妙なライブ感がある。向井自身が見たもの、吸った匂い、流れる意識をそのまま強制的にVRで見せられている感というか。視覚、触覚、嗅覚、意識、体のあらゆる部分で感じたものを矢継ぎ早にそのまま言葉にしていくかのような歌詞だから、まったく意味がわからない。意味は、わからない。でも感覚的にはわかる。

 

 そこに音が加わって、聴覚が満たされ、完全にわたしたちは向井秀徳の身体と意識を共有しているような錯覚に陥る。でもその錯覚も、わたしたちそれぞれの身体が起こしているものなので、ノリ方もさまざまである。

 

コール&レスポンスで一体になろうというのは、ある種苦手な部分がありまして。自分が観客として、拳を振り上げて、みんなでシンガロングするのは嫌いじゃないですけど、自分がライブを行う立場からすると、ちょっと違和感がある。

向井秀徳が語る、音楽に向かう原動力「私は自意識恥野郎ですよ」 - インタビュー : CINRA.NET

 

向井秀徳を聴く」といことが、向井秀徳という身体が魅せる「生の実感」を自分の身体によって追体験することなのだとしたら、わたしたちはそろそろ自分自身の「生の実感」をつかまえなくてはならない。そうなれば立派に「生の実感教」信者である。

 

 

  お察しの通り、ここから向井秀徳はほとんど関係のない話になる。わたしにとっての「生の実感」を語るフェーズに移行する。すまないね。蛇行する文章。

 

「生の実感」とは、己の身体に生じるあらゆる感覚や、脳内に立ち現れては消える意識や思考を、はっきりと自分のものだと認識し「ああ自分は生きているのだ」と感じることなのだろうか。しかし案外それは難しいことである。向井秀徳は「俺の目玉が見る景色」とか「俺が削ったTomboの鉛筆」とか飄々と言ってのけるけれど。

 

 わたしの身体に生じる感覚や、脳内に立ち現れるあらゆることを、わたしは自分で心底不思議に思う。

 

 頼んでもないのに心臓は変なリズムを刻み、頭は私の意思を無視して大喜利を始める。手の指先はジーパンの肌理を感じ取ろうとし、足指は互いにこすり合わされ摩擦を楽しんでいる。見ようとも思っていないのに、目はファミリーマートの青と緑にくぎ付けになり、次の瞬間には別の色のものが瞳に映り込んでいる。その間、揚げものやガソリンや植物の匂いが入れ替わり鼻をくすぐり続けている。さまざまな感覚が好き勝手にわたしの身体を支配している。それらを統括して「これはみんなわたしの感覚だ」と言い張れる大きなわたしは存在しない。ヘッドホンからはZAZEN BOYSが流れるのは、わたしが決めたことだけれど。

 

怒っていながらも、そことは違う感情も存在していて、人間の脳内とか心の中っていうのは、いろんなものが渦巻いてると思ってるんで、その状態を音楽で表したいと思ってるんですね。

store.cinra.net

 

 感情ですら統一できないものなのに、身体だって各部位が好き勝手にいろんなことを感じている。これをどうやってわたしのものだと認識しよう。そもそもそれを認識できるわたしがいたとして、そのわたしは身体のどこにいるのだ。

 

 なんだか混沌としてきたわたしにぴったりな文章を見つけた。

 ポーランドの小説家の言葉だ。

 

おれの体には統一がない。部分的にはそこここがどうもまだ子供のものだ。おれの頭はおれのふくらはぎを嘲弄揶揄し、ふくらはぎはふくらはぎで頭を笑う。指は心臓を、心臓は脳をあからさまにからかい、鼻は鼻で目を、目は目で鼻を大声で笑って、腹をかかえる――こうして、すべての部分のが、手当たりしだいになんでもやり玉にあげてゆく激しい相対的な嘲弄の雰囲気のうちで、いとも野蛮に暴力をふるいあっているのだ。

ゴンブローヴィッチ『フェルディドゥルケ』米川和夫訳

 

 この文章の躍動感。まさに「生の実感」とはこういうことなのではないか、というのがわたしの答えだ。

 わたしが身体のあらゆる感覚や、意識や思考がばらばらなのを戸惑っているというのに、このゴンブローヴィッチは笑っているのだ。発明的な文章だ。頭がふくらはぎを笑えるか。しかし、身体のあらゆる部分にそれぞれに生じた感覚が、ひとつに統合されることなくざわめいている状態を、これほどまでに表現した文章があるか。身体の各部位がまったく違うばらばらの笑い声をあげて、それがかさなりあって大きなざわめきになる。そのざわめき自体が「わたし」なのである。そう思えるとき、わたしは生きているのだ。

 

 風が吹くとつい笑ってしまう癖がある。

 

 風が身体を通り過ぎるとき、自分の輪郭をつい意識する。ばらばらの感覚をざわめかせながら存在しているわたしが、この世界に輪郭をもって存在しているのがおもしろいのだ。そういうとき、「ああ生きている」と思う。

 

風にふかれて

風にふかれて

  • provided courtesy of iTunes