ニートにハーブティーは要らない

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よく深夜に更新します

好きな人の顔を思い出せない現象についてプルースト先生と話し合う

ちょっといきなり甘酸っぱいことを言ってしまって申し訳ないんですけど、

 

わたし、好きな人の顔をなかなか覚えられないんですよね。自分だけだと思ってたけど、周りに聞いてみたらけっこうそういう人っているみたいです。

 

たとえばあなたはこんなシチュエーションにいる。

 

憎からず思っている相手と中目黒の高架下あたりで飲み、おでんをつつく彼の横顔を見たらなんか菅田将暉みたいに鼻がツンッとしているような気がしてかわいくて急激にキュンときて、俄然ノッてきて話もはずんで、それでも健全に終電前に別れて「またね」なんて言って各停の駅で降り、なんとなくまっすぐ帰りたくないくらい気分が高揚していてコンビニなどで無意味にアイスを買う。

 

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 https://spice.eplus.jp/articles/156690

 

だらだらとした坂を登り、自宅についてメイクを落としふーっと一息。バスタブに湯をためて、とっておきの入浴剤(クナイㇷ゚など)を入れて彼のことを思い出してみる。彼って意外と手が大きいんだ。やせっぽっちなのに。ミツメとか聴くんだ。あまりにイメージ通りすぎてちょっと恥ずかしくないだろうか。古着みたいなほっこりっぽい匂いとあたたかそうな体臭が混じってた。それも悪くなかった。肩のとこに糸くずついてたの取ってあげたら、とくに恥ずかしがるでもなく「ありがと。」と言った。なんかまぬけっぽくてかわいかった。いいな、いいな。繊細そうだけどがさつなところもあって、さっぱり涼しげで、性欲があんまり強くなさそうで。次は映画かな。吉祥寺のあのミニシアターで映画見て、ハンバーガーでも食べたいなあ。ロメール好きとか言ってたのって、あれちょっと背伸びだよね。ところで好きなタイプが門脇麦ってそれどうなのよ。どうなのよってこともないけど、どうなのよ。麦ちゃんがどれほど好きなのよ。

 

とまあ、片思いをはじめたばっかりの女の気持ちを妄想するのが楽しくて無駄に長くなりましたが、こうして彼のことを延々ループで考えるわけですね。こういうとき、どうしようもない細部は思い出せるんです。菅田将暉みたいなツンとした鼻、手の血管、微妙な匂い、好きな音楽に映画、などなど。

 

ああ、彼どんな顔してたっけ…。鼻はこうツンとしてるでしょ。髪型はなんか…こうくしゃっと。そう、ホクロあったあった。あれ、でもどんな顔だっけ。顔の形でいえば五角形だけど、そういう感じじゃなくて…。ちゃんと顔と顔を見合わせて話してきたのに、何度も盗み見た顔なのに、どうして思い出せないんだろう。aikoは横顔だけ見れれば十分みたいなこと言うけど、あたしはそんなんじゃイヤだよ。

 

こうして彼のいろんな細部を思い出して、悶々としているのですが、その細部が彼の像を結ばないのです。細部が細部としてばらばらに存在しているだけで、まったく彼全体が浮かび上がらないのです。

 

かろうじて像が結ばれても、ものすごく幾何学的というかデフォルメされた顔として思い出されるのです。たとえば「どうぶつの森」の主人公みたいな顔です。

 

 

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 とびだせ どうぶつの森 人気の顔は - とびだせ どうぶつの森 攻略

 

ほんとね、こんなもんですよ。菅田将暉みたいでいとおしいと思えた鼻も、ぶつ森のこの赤くてしょぼっちい▲に早変わりですよ。

 

これってどういうことなんでしょうか。自分だけかと思いきや、この疑問を抱いている人は結構多いみたいで、調べるとたくさん出てきます。みんな真相が気になるようで、幾多もの議論が交わされているようです。

 

  • 好きな人を見るときは興奮して瞳孔が開いているので、ピントが合わないから。
  • 好きな人の顔はしっかり見ることができないから。
  • 若さ故。

 

などの理由が挙げられていますがどれも核心には迫っていないようです。

 

このなかだとかろうじて、「瞳孔が開くから」がもっとも妥当な理由である気がします。わたしの場合、改めて好きな人の写真を見たときにあまりの違和感に驚いてしまいます。マジで誰オブザイヤー2018受賞だなってくらいに。菅田将暉どこ行った?ぶつ森どこ行った?なんですかこのやたら生々しい人間の男は。ってな感じで混乱に陥るのです。もし瞳孔が開いて現実の彼の姿をきちんととらえられていなかったとしたら、デフォルメされた姿も、写真をみたときに違和感を感じるのも納得できます。

 

しかしなんとなくなんだけど、瞳孔うんぬんの話じゃないような気がするんですよね。というのも、フランスの超大作『失われた時を求めて』でこんな部分があって、ちょっと思うところがあったから。

 

プルースト失われた時を求めて』の語り手は、恋心を抱くジルベルトの顔は思い出せないのに、回転木馬の受付の男や飴売りのおばさんの顔は、正確に記憶に刻まれたと語っています。この語り手によれば、相手に情熱を抱けば抱くほど、相手の姿はある一つの像として思い出すことが難しくなるといいます。恋心を抱く相手を見つめるときはあらゆる感情がうずまいていて、視覚からの情報が少なくなり、そのため相手のはっきりとしたイメージを獲得することが難しくなっていると自ら分析しているのです。わたしと同じですね。

 

さらに踏み込んで、こんなことを言っています。

 

愛する人を眺める時]おそらく視覚を超えるものを視覚で知ろうとして、すべての感覚が同時にそこに加わって活動しはじめるので、生きた一人の人間が次々と示す数えきれない形態や、ありとあらゆる味わい、動きなどを、われわれはあまりに寛大に受け入れてしまうかもしれない。ところがふだん人を愛していないときのわれわれは、相手を固定してしまうものなのだ。逆に愛されているモデルは動きまわる。だから写真はことごとく失敗に帰するほかない。

プルースト『花咲く乙女たちのかげにⅠ』(鈴木道彦訳、集英社、1997年、113ページ)

 

時空を超えて、プルースト大先生と恋愛あるあるで盛り上がれるとは思いもしませんでした。ちょっとしたグータンヌーボが仕上がってしそうなくらい、共感できます。

 

 「写真にはうつらない美しさ」があるとは聞いていましたが、まさにこのことなんですね。わたしたちは相手をフレームにバシッと収めて、記憶に残したい。でも相手は次々と多様な顔を見せてきて、水のように変化していく。これがただの「先生」であったり、「受付の男」であれば、その一面的な顔のみを記憶していればよい。でも愛する人を見るとき、その変わりゆくすべての姿を見ようとしてしまう。すべてを焼きつけようとしてしまう。あるある~。プルちゃんそれあるある~。愛する人のすべてを一枚のイメージ、写真に閉じ込めようとするってのがそもそも無理筋だったんだよね~?

 

 厳密には「愛する」と「恋する」は違います。「愛する」ときは相手のいろいろな姿や顔をすべて受け入れたい気持ちになっているのですが、「恋する」ときはむしろ、相手のある一瞬の顔に引き込まれている。その一瞬の顔を彼のイメージとして固定すると、他の多様な顔が「謎」として浮かび上がる。そういうわけで無数の「謎」が像を結ばずに、妙にデフォルメされたぶつ森的な顔で思い出されてしまうというわけなのでしょう。つまり、顔が思い出せないうちは彼を愛していないのです。菅田将暉みたいに見えたあの一瞬の顔にこだわっているのです。その顔すら思い出せないのは、そのほかの「謎」の顔たちの記憶に邪魔されているからなのでしょう。

 

プルースト先生、そうなんですか、そういうことなんですか。そういうことでいいんでしょうか。

 

もしプルースト先生と恋愛あるあるで盛り上がりたい方がいたら、全十三巻セットがございますのでアマゾンからどうぞ。

 

 

 

 参考: 『写真と文学: 何がイメージの価値を決めるのか』(塚本昌則編 2013/10/29 平凡社)より 「見えない写真――心のなかのフレーム」

 

写真と文学: 何がイメージの価値を決めるのか

写真と文学: 何がイメージの価値を決めるのか