あなたはほうじ茶でアガれるか? おばさん群像劇『滝を見にいく』
「あんただっておばさんになるのよ」
背中にぴしゃりと投げつけられた言葉を払いのけ、「なるもんですか」と思いながらずんずんと生きていくうちに、少女たちは瞬く間におばさんになっていく。「かわいいおばあちゃんになりた~い♡」と言う少女はいても、「ええかんじのおばさんになりてえ」とつぶやく少女はあまりいない。「わたしたちっておばさんだよね~」などと言っているアラサーのお姉さん方も実は自分のことを本気でおばさんだとは思っていない。彼女たちはどこかで「おばさん」はフィクションだと思っている。
いつも「ほどの良いおばさん」として日々働いたり、近所づきあいをしたりしているわたしの母。
しかしそれでも彼女は言う。
「心がね、追いつかないのよ。おばさんなのに」
「気持ちだけはいつでも若いつもりだからさ」
そう、ハートの部分はたぶんあんまり変わらない。ちょっとシミができたり、首のところにざらつくイボができたり、傷の治りが遅くなったりするだけである。心が追い付かないのに、まあなんとなくおばさん然とした振る舞いが妥当なんだろうと思いながらおばさんというフィクションを演じるうちにおばさんとして円熟していく。昔もっていた鮮烈な思いとか、傷つきやすさとかそういう繊細な感情は、ほんのちょっとだけ心に隠しておきながら。みんなそういうおばさんに見まもられてきたのだ。
おばさん然としながら、心にひっそりと少女を飼う。
わたしはやっぱりそうなりたい。感受性が豊かすぎるままでは、とても80年も生きては行けない。何より心が不安定だと他人にやさしくできない。少しずつ心の感度を下げていって、ちょっとガサツでもやさしくおおらかなおばさんになりたい。でもどこかに繊細な部分も残しておいて、自意識過剰で傷つきやすい若者にも共感できるようでありたい。たまに自分の甘酸っぱいところをひっそりと取り出しておきたい。
そういうおばさんになるためにひとつ必要なのは、たのしむ技術である。というより、「勝手にたのしむ技術」である。
他人に自分の価値を求めるでもない、「何か楽しいイベントはないか」と騒ぐのでもない。ひとりで勝手に日々のことをたのしんで、心をうるおしている。気が沈むことがあっても、そういう日々の小さな楽しみで心を修復させて、やっぱりおばさんとして振る舞って他人を少し安心させる。
そういう技術を盗めるのがこの映画『滝を見にいく』である。
前置きが長すぎますでしょう?しかもなんか話がつながっているんだかいないんだかよくわからないでしょう?きっとこれはわたしがおばさんになっても変わることがないのでしょう。
この映画、簡単に説明するとおばさん7人が「紅葉を見て、滝に感激し、その後は秘湯で至福の時を過ごす」という内容のバスツアーに参加したはずが、業者の不手際により山中で迷い、一晩みんなでいっしょに野宿することになるという内容。
ほんとうにこれだけ。7人のおばさんそれぞれのデティールがしっかり描かれていて、濃密なおばさんあるあるが楽しめる。
この方のブログ、おばさん7人をしっかり講評していてよかった。
- 腰に爆弾を抱えたクワマン(桑田さん)
- クワマンと仲良しでオペラを嗜むクミ(田丸さん)
- 山野草マニアで写真展への作品を出すために山に来たサバイバルスキルの高い師匠(花沢さん)
- 師匠をリスペクトし山のルールに従う弟子のスミス(三角さん)
- ぼんやりとした主婦のジュンジュン(根岸さん)
- 夫に先立たれながらも彼に影響されて始めたバードウォッチングを続けているセッキ―(関本さん)
- 昔水商売をやっていた感じのするユーミン(谷さん)
この7人のおばさんが夜中に火を起こしてキャンプファイヤーをしたり、食料をゆるく探したり、なぜか少しだけはっちゃけて縄跳びをしたりするのをひたすら真顔で見る1時間半。一夜にしてけっこう衰弱するおばさんたち。
これだけ聞いていると「観て楽しいのか?」と思うはずである。
しかしなぜか楽しいのである。おばさん一人ひとりに愛を込めて描いているのがよくわかる。中途半端なズボンの丈感とか、サンバイザーとか、バスの中でなんかいろいろ食べているとことか、そういう「おばさん」然とした細かな描写が楽しい。おばさんのガサツな部分、下世話な部分、たくましい部分、もろい部分、憎めない部分、少女みたいな部分。さまざまなデティールが、笑いを誘ったり、切なくさせたり。
いくつか大好きなシーンがある。
セッキ―が山の中で夢を見て、枯れ野原の中に死んだ夫を見つけて「行かないでぇー!」と叫んで目が覚めるシーン。野原のなかをヨタヨタと走るセッキ―。消えていく夫の影。一緒にバードウォッチングを楽しんだ、最愛の夫。先にいなくなってしまった夫。セッキ―は悲しみを抱えながら、それでも呑気な感じのおばさんとして日常を続けていくんだと思うと切なくいとおしい気持ちになる。バードウォッチングを楽しんで自分の心をうるおしながら、悲しみをだましだましで生きていく。セッキ―に幸あれ。
あとクワマンとユーミンが山で迷子になったイライラからお互い攻撃的になって大喧嘩に発展し、結局夜中に一緒にヤニを吸うことで仲直りするシーン。二人の大人げない感じがとても人間らしくていい。(バイト先とかにいたら嫌だけど。)二人とも年季の入った吸いっぷりで、これまでの人生遍歴をうかがわせる。「一回ブチキレ合って、また仲直り」って、なかなか大人になってから経験できることではないと思う。一服がもたらした、交わらないおばさんどうしの人生を繋ぐかけがえのないひととき。
最後に一番好きなシーン。
かなり序盤、まだ山中で迷う前、クミが水筒を取り出しツレのクワマンと一緒に飲むシーン。
クワマン「それ(水筒)なに入ってんの」
クミ「ほうじ茶(クチャクチャと何か食べながら)」
クワマン「ナァ―イス(低音)」
いかがだろうか。このシーンの味わいは実際に見てほしい。
ふつう、人の水筒の中身がほうじ茶だったぐらいで「ナァ―イス」と言えるだろうか。アガれるだろうか。なんでもない水筒の中身のお茶にもちょっとした「差異」を見出し、たのしむ。これこそ、「勝手にたのしむ技術」の真骨頂ではないだろうか。
大好きなエレファントカシマシの「悲しみの果て」という曲のなかにこんな部分がある。
部屋を飾ろう
コーヒーを飲もう
花を飾ってくれよ
いつもの部屋に
乾いた心をうるおし、生きる力を取り戻させるのは、日々の暮らしにおけるほんのちょっとの「差異」である。いつものようにめぐる朝の、コーヒーの香りの微妙な違い、再現しようもない花のかぐわしさ。
しかしおばさんくらいのたのしむ達人になると「コーヒーを飲もう」でなくてもよく「ほうじ茶を飲もう」でもいいのだ。充分アガれるのだ。もっとエスカレートすると「お白湯でも飲みましょ」になるかもしれない。そこまで来たらもう怖いものなしである。何もかもが輝いて手を振るだろう。
『滝を見にいく』、おばさんの群像劇として素晴らしいうえに、今後の人生の指針まで与えてくれた。
わたしは今後ものすごいはやさで歳をとるけれど、目指すところはただ一つ。
シラフでほうじ茶でテンションを上げられるおばさんになることである。