ニートにハーブティーは要らない

ニートにハーブティーは要らない

思ったことを書いています

あの頃、公文式で苦悶していた

 

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はい。

 

この鞄を見て、一瞬にして時をかけた人も多いのではないでしょうか。「くもん行っくもん♪」でおなじみのくもん学習指導教室のバッグですね。

 

ついこの間、この黄色とネイビーの鞄を持った子供たちが脇を駆け抜けていったとき、まさしくわたしも時をかけました。過去の風が吹いた、と感じました。わたしもまた、かつてはくもんキッズだったのです。

 

齢5歳にして「幼稚園行くのめんどいな」という感覚をもっていたわたしは、割りばしを削る、たんぽぽの茎を割いて水に沈めてクルクルにする、などの地味な作業に明け暮れるだけの空虚な生活をおくる残念なキッズでした。

 

そんなわたしに「○○ちゃん、おべんきょうとかしてみる?」と母が問いかけてきたのがはじまりでした。まるで何のことだかわかりませんでしたが、「おべんきょう」とやらで空虚な日々を埋めることができるのならそう損な話ではないと思い、「よかろう」と答えるとすぐさま母も「承知」とのことで、入塾の手筈がスピーディーに整いました。

 

連れていかれたのは、家のそばのくもん教室ではなく、なぜか車で10分くらい離れた祖母の家の近所にあるくもん教室でした。なるほど、そもそもわたしをくもん教室に通わせるというのは祖母の目論見だったのだなと気が付いたのはしばらく後のことです。よくよく考えれば母はわたしの勉強についてとくに興味がなさそうでした。一方の祖母はまだ幼子のわたしに『雨ニモ負ケズ』を百回書き取りさせるなど、教養スパルタ婆さんとしての才覚を発揮しており、なるほど「幼いうちからくもん式に通わせて賢い子にしよう」という計画を考えそうなわけです。

 

そういうわけでわたしは、まるで幼くて何もわかっていなかった5歳から、心身ともに発育し現在22歳のわたしと大体同じ位の背丈になった小学6年生になるまで、くもん漬けの日々を送ることとなったのです。

 

わたしは数学と国語を選択しました。

 

主に力を入れたのは数学のほうでした。いや、最初はさんすうだったのですが。

 

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5歳の時分は、この大きな7を一生懸命にえんぴつのよれよれの線でなぞっているだけで大いに褒められました。1,2,3,4,5と順番になぞっていって、表ができたらシートをペリッと他のシートから切り離して裏面にいきます。このペリッが子供心に楽しく、どんどん鉛筆は進み、わたしはくもん教室のエリート街道を走り始めたというわけです。

 

わたしはつぎつぎに「進級」し、シートに書かれている文字はどんどん小さくなり、やがて×だの÷だの√だの≧だのが登場するようになり、いよいよめまいを覚えながらシートに向かうようになりました。持ち前の真面目さで「やらなきゃやらなきゃ」と歯をくいしばりながらがんばるうちに、自然とそうなっていったのです。そう、小学生にして高校数学を解くようになったのです。その教室に張り出されている進度ランキングを見ると、わたしの名前、ひどく凡庸な名前が書かれた平たいマグネットが一番上に申し訳なさそうにベタッと貼ってありました。はじめの頃は「負けないぞ~!」などと話しかけてくれた男の子にも、すっかり距離を置かれるようになってしまいました。

 

小学校でももちろん「算数ができる人」として認知されました。クラスの催しで「バースデーカード」を全員からもらったときに、そのほとんどに「計算がはやいね」とか「計算がせいかくだね」などと書かれていて、CASIOが誕生日を迎えたらこんなかんじかしらんと洒落たことを考えながらも切ない気持ちになっていました。あのとき、「○○ちゃんはお話がとっても面白くてたのしいよ」と書いてくれたたった3人くらいの子たちの幸せをわたしは今でも祈り続けております。

 

ところで、わたしはそのとき県内で進度が2位とのことでした。これに教室の先生は大いに喜び、「頑張ろうね、期待してる」と声をかけてくれました。わたしは「いよいよ参ったな」と思いました。なぜなら、そろそろ数学教材がわたしの理解の範疇を超えそうになっていたからです。毎日毎日何時間も放物線を書き、少し休んでは鉛筆で真っ黒になった手を呆然と眺めました。

 

先生に質問に行くと「自分で考えてみて」と返され、そう言われるとわたしはもう教室の隅っこで頭の上におっきな「?」マークを浮かべながら座り続けるしかありませんでした。気が付けば、教室に来てから6時間も座っていました。どうしてこんなにわからないんだろう、わたしは何をやっているんだろう、と自問自答を繰り返し涙をこらえながらじっと座っている。それが小学生の頃のわたしでした。

 

「さすがにもう帰っていいよ、またね」と言われ、引き戸をガラガラと開けて外に出ると夜風がすうっと冷たくて、鼻の奥がツンとするけど、これから向かう祖母の家の冷凍庫にあるパリパリチョコサンデーアイスのことを考えると涙は引っ込んで、バタバタと帰路を駆けたのでした。

 

そう、だましだまし頑張っていたけどわたしはもうすでに限界に向かっていました。そして、理解度が限界に到達すると同時に「中学校進学」といういい節目を手に入れ、先生に引き留められながらもスッパリとやめてやったのです。思い出がないわけではないですが、あのときほど「自由を手にした…!」と感じたことはありません。

 

くもんのことを思い出すと、ひとつ忘れられない光景があります。

 

書いていませんでしたが、わたしの2つ上の兄も一緒にくもん教室に通っていた時期がありました。兄もわたしと同じように、くもんに通うことに大きなストレスを感じていたようでした。そのため、兄はくもん絡みとなるとときどきトリッキーな行動をするようになっていました。教室内にカナヘビ(小さなトカゲのような生きもの)を持ち込んで、解き放ち、教室に悲鳴をもたらしたこともありました。 よく会社員の方などが「会社に隕石落ちねえかな」などと言いますが、まさにその発想でささやかながら実際に行動に移してしまうような深刻な状況だったのです。

 

ある日、わたしと兄はかなり早めにくもん教室についてしまい、外で開くのを待っていました。教室のすぐそばには小川が流れていました。キラキラと光が反射した底浅のその小川を橋の上から見下ろしながら、わたしと兄はなんとなく憂鬱な気持ちを共有していました。

 

兄は橋の手すりにもたれかかり、鞄を持った手をぶらりと小川の真上に投げだしていました。

 

「落としちゃうかもよ」と言うと兄はあいまいに笑うだけでした。

 

すると次の瞬間、ネイビーと黄色の影がシャッと小川へと落ちていきました。兄の手を滑り落ちた鞄は、清らかな水の上をなんとも呑気に滑っていきました。

 

兄は「お、落としちゃった!」などと慌てるふりをしましたが、嘘であるのはバレバレで、その顔は今手に入れた自由をかみしめて輝いていました。

 

そのすぐあとに、兄はわたしより先にくもん教室をやめました。

 

キラキラと輝く小川を流れていった、あのくもんバッグ。わたしのなかでそれは、女神像にも代えがたい「自由の象徴」として心の奥に残りつづけているのです。