ニートにハーブティーは要らない

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地に足つけて生きている人間の言葉にはドライヴ感がある

地に足つけて生きている人間の言葉には、ドライヴ感がある。

一見それは意味不明の言葉であっても、たしかな重量をもったカウンターパンチとして身体に響いてくる。

 

小さい頃は、よく喫茶店に預けられていた。祖父が自宅の一部を改造してやっていた喫茶店である。国語と美術の教師を長くつとめた祖父が、自分が好きな音楽をかけ、好きな詩集や雑貨を置き、のんびり時間をつぶすために作った店だった。なぜか店中にこけしを飾っていた。生真面目な祖父は、コーヒー豆屋から教わった方法を杓子定規に守って、抽出時間も一分一秒違わないように、サイフォンに一滴も水気がないようにふき取ってから、親の仇のように一杯のコーヒーを淹れていた。それ故、大して品質の良い豆を使っているわけではなかっただろうに、そこそこ美味いコーヒーだったらしい。

 

しかしわたしはコーヒーなんて飲まず、バナナパフェを作ってもらって、店の隅っこで宿題をやっていた。

 

すると、祖父のお仲間たちが続々とやってくる。地元の詩人、ジャズシンガー、画家、「あえて」こんなド田舎に住んでいるような人たち。たまに宗教家。「何か」を「あえて」田舎で発信しているような人たち。

 

彼らは何かハイコンテクストな話題でつながり、了見でつながり、目くばせしあっている。この空間で共にいることで、何か高みに上っているかのような、要は何らかのカルチャーを解しているという優越の意識があった。

 

「マスターのお孫さん」ことわたしにも、彼らは話しかけてくれるが、いまいち何を言っているのかわからない。わたしは坂本龍一と言えば「戦場のメリークリスマス」しか知らなかった。小さいながらに疎外感にたまらなくなり、宿題をもって母屋に引っ込む。

 

そこでは、肥った短髪の女が、干し柿をネチネチと食べながらワイドショーを見ている。祖母である。ハサミなど危険なものが散乱している紺色のソファーの上に電気毛布を敷いて、テレビに向かって悪態をついている。

 

わたしに気が付くと、「まんず座れ」と言う。

そして干し柿を口元に押しつけ、「ケ(食え)」と言う。

干し柿が嫌いなわたしは、食べないと祖母がキレるということをすでに知っているので、嫌々口に含み、あまり噛まずに飲み込む。干し柿はしばらく食道に張り付いているようで、胸が微妙に苦しくなる。この干し柿はおそらく、祖母が勤め先の産直センターでもらってきたものだ。あかぎれのあるガサガサした手の、年のいった女たちがたくさん働いている場所だ。祖母は産直センターで人気者で、こういうもらい物は優先的にまわってくる。

 

祖母は冷凍庫焼けしたアイスや、瓶に入ったおかき、絶望的な濃さの緑茶を矢継ぎばやに出してくる。そして、口角泡を飛ばしながらわたしに話しかける。

 

「昔は川さ行って野菜だのなんだの洗ったのス。したっけ人参流れて来たおん、おらも食えるど!ってケばうまくねぐてよ」

「かっちゃんベビースターにやられたのス」

「だぁれあったな裸みてな恰好であるってらのがいぐねのス」

「おめはんもよぐね童だごと」

 

上から順に、「祖母が人参を嫌いになった理由」、「祖母の母、つまりわたしの曽おばあちゃんが、足のあかぎれベビースターが挟まって悶絶した話」、「薄着して出歩く若者が風邪をひく話」、「わたしが性格の悪い子供である話」を示す。祖母はだいたいこんな感じの話をよくしていた気がする。

 

その生臭い生命力のある祖母の世間話は、祖父のお仲間たちの言葉よりもずっとリアリティがあった。川に流される人参をガリリとかじってまずさに顔をしかめる幼き日の祖母が、あかぎれベビースターが挟まって悶絶して周囲にキレ散らかす曽おばあちゃんの姿が、なにより「よぐね童っこ」というわたしにおあつらえ向きの形容詞が、生々しい実体をもってわたしの身体をガンガン殴ってくる感じがした。それは、しばしばナルシスティックな空想に浸りがちな子供心を、現実に連れ戻すには充分だった。ホグワーツに入れないわたしは、ニンバス2000から振り落とされて、もち米がよく育つド田舎のこの大地にビターンと叩きつけられたのだった。

 

なぜ祖父が祖母と結婚したのかずっと疑問だった。祖父がやる喫茶店にも「光熱費のムダ」と文句ばかり言い、ワイドショーを見ては政治家や芸能人に文句を言うのが趣味の祖母に、いつも祖父はあきれたような顔をしていた。でも今ならなんとなくわかる気がする。詩や小説が好きで、音楽にも一家言あるような人間は、しばしばナルシスティックな空想に捉われ、現実を生きられなくなりがちである。すぐに彼らは「彼方」を用意してそこに逃げようとする。自分を「特別」だと思おうとする。すると現実のなかで理想だけが空転するようになってしまう。祖父もまた、祖母によって、祖母の言葉によって地面に叩き落とされることを望んでいたのではないだろうか。

 

わたしが祖父のお仲間たちをいけ好かなく感じたのは、幼いながらに自分と似た成分を感知したからかもしれない。それと似たようなことが大学に入ってからもあった。先輩が何人かで文芸誌をつくったから、その刊行イベントをブックカフェでやるというので誘われて行ってみたことがある。ブックカフェという場所にも興味があった。しかしまあ行ってみると、ソフトな地獄だった。刊行するまでの内輪での苦労話、今「文芸誌」という古風な媒体を選んだのがいいよね~みたいな話。こんな排他的な空間を作る人たちに、「あたらしい言葉」とやらが降りてくるだろうかと疑問に思った。何か集団で空想に捉われているんじゃないだろうかと気持ち悪くなり、早々にブックカフェを出ると、似たように同じゼミの男の子が出てきて、お互い絶妙な距離を保ちながらはや歩きで帰った。

 

昔、わたしは本当に嫌な子供だったと思う。勉強も得意で、言葉もよく知っていた。講釈も垂れた。父に「高飛車だぞ」と怒鳴られ、床に顔を押しつけられたことがあった。今でも高飛車である。地面にしっかりと足をつけて現実を生きる強さをあまり持たないくせに、すぐに空想のなかで高みに上り、批判精神ばかりが肥大していく。知ったかぶりをして、優越の意識を持つ。祖父のお仲間たちや大学の先輩たちへのいら立ちは、彼らを鏡にして自分を覗き込んでいたということである。彼らが実際のところどうだったか、本当はよくわからないのだ。そういう風に見えていたという時点で、まあ、わたし自身がそういう風だったということだろう。

 

わたしには、地面に叩き落としてくれる祖母の言葉のようなものが必要である。「お前は特別でもなんでもない」「這いつくばって生きろ」と教えてくれるような、そして日常こそが最もおもしろいのだと示してくれるような言葉が。それは、カルチャー界隈の人たちが集まる店にも、内輪で創って趣味の良い本屋でだけ売られるような文芸誌のなかにも、きっと無いだろう。だんだんにそういう言葉を自分で発せるようにならないといけないと思うけど、まずはどんどん摂取しないといけない。逐一自分を叩き落とさなくてはいけない。

 

そういうわけで最近聴いているのはGEISHA GIRLSのKick & Loudである。

 

Kick & Loud

Kick & Loud

  • provided courtesy of iTunes

 

これはダウンタウンの地元、尼崎の言葉でつくられたラップである。貧しかった労働者たちの象徴のようなこの言葉が意味不明ながらもドライヴ感を持って迫ってくる。祖母のにらみつけるような眼差しと、唾を飛ばしながら語り掛けてきたあの勢いのある言葉たち、そんなものを思い出せるのである。するとだんだんこちらの身体もドライヴしてくる。空想に占領されていた身体が、スッと戻ってくるようなそんな感じである。

 

森岡のオッサン

メチャ臭い屁こいて朝から寝てまんねん

めばちこ さぶいぼ マロニー煮すぎて とけてもた

「Kick & Loud」作詞:Ken/Sho 作曲:Towa Tei 

https://petitlyrics.com/lyrics/17470

 

わたしはこれの東北弁を聞いてきたのである。