ニートにハーブティーは要らない

ニートにハーブティーは要らない

思ったことを書いています

ヨコハマ・日雇い・メモリー

 

 

どうでもいいことばかりやたら記憶に残るというのは本当によくあることである。ついでにちょっと教えてあげるけど、ナジャ・グランディーバは普段はだいたいハンバーグなどを食べているようだ。なんかの番組で言ってた。

 

そんなどうでもいい情報もそうだけど、ある一瞬の情景が、いわゆる「撮れなかった写真」のようなかたちで鮮烈に焼き付いて忘れられないというのもまたよくあることである。そのときの嗅覚・触覚・聴覚あらゆる感覚と結びついて、いよいよその情景は走馬灯に出てきそうなくらいメモリーに刻まれ、ときにかたちを変えて夢にまで現れてしまうなどする。そしてその情景は人生を決定的に方向付けるものでもなければ、何か心に強いダメージや感動をもたらすものでないことも多く、「ほんとなんで?」としか言いようのない無価値な情景なのである。

 

学生最後の春休み、わたしは本当にお金がなかった。貧乏トークを楽しんでいた上京友達はなぜかヨーロッパ周遊に出かけ、富裕層の友達は相変わらず留学しまくって卒業が遅れていて、彼氏のTはオーダーメイドのスーツを注文していた。物欲も旅行欲も薄いわたしは、日頃居酒屋などだらしない消費に走りがちなせいで残るモノも少なければ残高も少なく、時間だけは有り余っていて、近所の公園で梅の花を見ながら歌を口ずさんだり、お菓子を焼いて全部自分で食べて罪悪感で胸を重くしたりしていた。

 

そんなふうに過ごしていても残高は減るもので、Tと行く予定だった台湾格安ツアーに行けるかどうかも怪しくなってしまい、急きょバイトをすることにした。とはいえ、すでに3月に入っており新しいバイトを始めるにしても無理があった。そうして必然的に、いわゆる「日雇い」と呼ばれる仕事をやることになった。

 

登録を終えてやってきたのは、横浜の倉庫街。

あれほど憧れた海の前には、無機質で広大な倉庫が立ちふさがっていて、どこまで行っても景観はグレーである。だだっ広いまっすぐな道の脇には、手入れされていない植え込みが続いている。その植え込みがわずかに途切れている場所があり、そこには粗末なステップが設けられている。わたしはそれを上り、倉庫の敷地内に入る。

 

そこは某大手企業の食品倉庫。受付で名前と団体名を告げ、ひどくぞんざいに入館証を手渡されて控室に入る。控室は畳が敷かれていて、今時珍しい分厚いテレビが中央に鎮座し、作業着の男女が顔にタオルをかけて雑魚寝している。部屋全体が日焼けして、セピア色に見える。わたしは長机の隅に陣取り、持参したコンビニのコーンパンをかじった。壁にもたれかかって眠っているのは、顔中にやけどを負いかさぶたのようになった高齢の男。死んだ目で宙を見つめている40代ぐらいの男は、何日も髪を洗っていないようで脂ぎっている。赤茶けたほうきのような髪の老女が、コップつきの水筒で茶をすすっている。その中でわたしは胸をざわめかせ、勤務が始まるのを待った。

 

時間になり、周囲の人たちが動きはじめたのでわたしもそれに続いた。まずはヘルメットをかぶるらしい。同じヘルメットを使いまわしているので、中に頭の形のような紙を敷く。そしてラバー付きの軍手とカッターをもって勤務フロアに降りる。

 

「軽作業」という言葉の嘘を知っている人も多いだろう。わたしも事前にネットでいろいろ調べたので知ってはいた。「軽作業」という名目で、ピッキング作業(納品する前に倉庫から商品を取りだして所定の位置まで運ぶこと)に駆り出され、予想以上の重労働に音を上げる人が多いのである。

 

わたしが派遣された現場も、まさにそれだった。食品倉庫とはいえ、運ぶ段ボールの数は膨大で、持ち上げるたびにフンッと鼻息が漏れる程度には重い。煩わしくなって軍手を取って運んでいたら、段ボールで脂気を奪われ乾いた手のひらが切れて、わずかに血がにじむ。平べったい、似たような無数の箱に囲まれて、ぼーっとする頭でひたすら数をかぞえ、所定の位置まで運ぶ。サイズの合わないヘルメットがあくせく動くわたしの頭の上で陽気にカパカパ動く。自分を俯瞰するもう一人の自分が現れ、カパカパのヘルメットを頭に乗せ、へこへこと段ボールを運ぶ中肉中背の女を脳内スクリーンに映し出してくれる。思わずちょっと笑ってしまう。

 

男性陣は慣れたもので、先ほど休憩室で死んだ目をしていた男はテキパキと働き、わたしにもいろいろ教えてくれた。その合間に「昔はこれでも結婚していたんだぜ」とか「最近は派遣会社も仕事をくれなくてどう生きていけばいいかわからんね」などと身の上話をしてきた。

 

一度目の休憩のとき、その男が派遣会社に電話していた。「なんで仕事入れてくれないんですか。女性ばっかり優先するんですか。」わたしも思わず死んだ目になった。

 

しかし、倉庫の社員が日雇い派遣のもとにやって来て1000円札を取り出し「これでジュースでも飲んで!」と声を掛けると、男はにわかに表情をほころばせた。「おれモンスターエナジーにしーちゃおっと」と言いながら、自販機で一番高いモンスターエナジーを購入し、いい喉音を鳴らしながら飲んでいた。

 

休憩後、再びわたしは段ボール運び人形と化した。そして今度は別の男が身の上話をしにやって来た。倉庫の社員の男性だった。浅黒く痩せた肌には皺が寄っていて、父と同じくらいの年齢のようだ。一見眼光が鋭く、近寄りがたい印象だが、話してみると声音も優しくフレンドリーな人だった。フォークリフトにのった若いヤンキー風の男が通り過ぎざまに「●●さん、女には優しいなあ」と言いながらまた風のように去っていく。●●さんは「ばーろーめい」と返事をし、再びわたしに身の上話をする。

 

「俺さ、こう見えて嫁さんは若いの。なんとね、28歳。驚いた?驚くでしょ?」

 

「俺さ、子供だっていてさ、全部女の子。みんなもうおませさん。猫ちゃんも飼ってるよ。」

 

「最近三味線習い始めたんだよ。和楽器バンドだっけ?あれ見てなんか感動してさ。」

 

おじさんは矢継ぎ早に自慢をしてくる。先ほどの男よりもはるかにポジティブな内容ではあるが、慣れない重労働で判断力を失っているわたしにはどちらも似たようなものに思われた。相槌だけは上手なわたしはぼやぼやした肯定の言葉でおじさんの自慢を無限に引き出していった。

 

休むことなく口を動かし続けるおじさんと一緒に、恐ろしく重くて巨大な段ボールを運んだ。暗鬱な倉庫の中の空気を重い足取りで進んだ。運んでいると突然パッと視界が開けた。

 

そこは横浜の青い海。春の日差しを浴びてキラキラと光り、その光はベイブリッジや倉庫、トラックにも反射して、一面がオパールを砕いた粉をちりばめたようで、目が焼けそうだった。そんな光の情景が、真四角に切り取られてわたしの前に突然現れた。

 

光に包まれながらおじさんはまだ自慢を続けていた。

 

「最近給料も上がっちゃってさぁ、もうおじさんで体力なくなってるのに申し訳ないよねえ。」

 

どうでもいいがこのとき、おじさんの八重歯が抜けていることに気が付いた。

 

なぜかはわからないが、この場面をわたしは一生憶えているだろうなと思った。美しい景色に目を焼かれ、おじさんの自慢に耳をひらき、重労働で体じゅうの筋肉がキリキリ痛んでいたあの身体感覚とともに今でも鮮明に思い出すことができる。