サイゼリヤでひとりでワインを飲むぐらいのことがあってもよい
会社の帰りにひとりでサイゼリヤに寄る。
街の雑踏の中を歩きながら、緑色の看板を見つけたときからわたしはなんだかぼんやりしてしまって、目が空洞になっていく感覚を抱く。あらゆる視覚情報が空洞になった目を風のように通り抜けて行って、頭の中身はこれから行くサイゼリヤの空間で満たされていく。
ビルの階段を上って重いガラス戸を押せば、薄暗い暖色系の店内照明も、大きなレプリカの絵画も、あか抜けないようすの家具類もすべてが思い描いたサイゼリヤの空間だ。入口のすぐそばに、壁がコの字形に凹んだなんともいえないスペースがあって、そこでたいてい2組くらい待っている。学校帰りの女子高生や、あえてサイゼリヤで飲んでみますかといった風情のサラリーマン二人組が楽しそうに「サイゼリヤなんてけっこう久しぶりだね」などと言っているそばで、ひとり順番を待つのも今では平気になった。なめらかな動作で自分の名字をリストに記入したあとは、やはり空洞の目のまま頭の中をサイゼリヤで満たしていくだけだ。
「オヒトリ様お待ちの」と呼ばれ、店員に伴われて店の奥まで歩いていく。サイゼリヤは思った以上に広いことが多い。熱海とか、どこかの島にあるようなさびれたトリックアート美術館くらいの広さがあるのではないかと思う。
「こちらメニュデス。お水あちらドゾ」
揚げパンのような腕をした中国人の店員に、おざなりに席につかせられる感じがいい。そう、水は自分で取るスタイルだ。ここで豆知識だけど、ドリンクバーのジュースコーナーにある無糖の炭酸水も、水同様に飲んでいいことになっているらしい。
ところで、ファミレスのメニューがわたしは大好きだ。
なにもかもがポップでチープでワンダフル。サイゼリヤも例にもれない。嘘みたいな照りの肉や、ビタミンカラーの野菜や、踊る粉チーズや、強靭な堤防のようなプリンがあの手この手で気を引こうとしてくる。メニューに並ぶ嘘の料理に誘惑されるいま、カラフルなおもちゃがあれば手当たり次第口に運んだ幼少期を思い出す。
それから、「ミルキーななんちゃらモッツァレラ」だとか「おつまみにぴったり!」とか、いちいち入る茶々のようなコピーがいい。わたしも仕事で、短くてさして意味をなさないようなコピーをただの隙間埋めのために考えなくてはいけないときがある。「あなたの考えたコピー、ちゃんと読んでますよ」とメニュー作った人に言いたい。
こうやってメニューを眺めること自体がわたしの娯楽であるから、注文するまでに時間がかかる。しかし頼むものは大体決まっている。アラビアータか、アンチョビのピザか、たらこソースのシシリー風、ほうれん草のグラタン、チキンのディアボラソース、柔らか青豆の温サラダ。そして赤か白の250ミリのデキャンタワイン。
満を持してアラビア―タを注文すれば、デキャンタワインがすぐに出て来る。
チープなレディを23年間やっている女として言わせてほしい。デキャンタは、250ミリがいい。500ミリでは大きすぎる。250ミリがいい。500ミリを飲むと酔ってしまうからという問題ではないのだ。250ミリのデキャンタには、ついさっきまで花でも飾っていましたという風情がある。窓辺に飾っておきましょうか、という気分にもなる。そのくらいの大きさであり、佇まいなのだ。わたしとしては、そう思う。
去年あたり、サイゼリヤのグラスはプラスチック製になった。これによりサイゼリヤでの晩酌における哀愁は、またひとつ深みを増した。赤ワインを自分で注いでグラスのふちを歯にあてると、コツリと間抜けな音がする。こういうときに「もっといいところで晩酌できるようになるぞ~」と思えればいいんだろうけど、サイゼリヤにもこのプラスチックのグラスもどきにもすっかり慣れすぎてしまった。プラスティック、ラヴ。
アラビアータが届いたころには、デキャンタの三分の二がなくなっていた。湯気をたてるパスタに取り掛かるわたしの横で、ミートドリアを食べていた女性がデキャンタの250の白を追加注文した。こういうふうに自分とまったく似たような感じで飲んでいる人を見ると、ちょっとうれしくなる。どういう感情かというと、(お、やってんねェ!)という感情だ。
釣りを趣味にしている父も同じような気持ちなのかもなと思う。うちの父は夏に鮎釣りに行くのを慣習として、行きつけの川がある。そこで毎年出くわす同じような年恰好の中年男がいて、そいつが先に川に入って釣っているのを見るたびに父は心の中で(あいつ、またやってんな)と思うらしい。そして完全にお互いの釣果を意識しあいながら、日が暮れるまで川につかって釣り竿をたらすのだ。
何年も同じ場所で同じことをしているのに、お互い話しかけもせずに、心のなかで微妙な仲間意識をもつ。そんな人間関係ってあるよなと考えながら、アラビアータの塩気でワインをぐびぐび飲み干し、再びメニューを開いた。