ニートにハーブティーは要らない

ニートにハーブティーは要らない

思ったことを書いています

卓球の愛ちゃんがあんなに泣いていた理由を、卓球の愛ちゃん自身も今ではあまり思い出せないのかもしれない

 起き抜けにベッドの中でyoutubeを開き、卓球の愛ちゃんを見た。まだ小さい、「泣き虫愛ちゃん」と呼ばれていた頃の愛ちゃんである。それも試合の動画ではなく、テレビで明石家さんまと対決をさせられたときのやつだ。

 愛ちゃんは小さくてふよふよしていた。パンダみたいに髪を結って、ラケットをもって、カラフルでだだっ広いスタジオに立っていた。わたしは愛ちゃんの8歳下だから、当時は愛ちゃんのことを小さい存在として認識していなかった。
 だけど今こうして見るとすごく小さい。
一方で、ひな壇に並んで笑っている大人やアナウンサーの女性、そしてさんまは壁のようにでかい。愛ちゃんを泣かせて視聴率を取ろうというもくろみを持った大きい人間たちの中に、小さい小さい愛ちゃんがいる。
「愛ちゃんが泣けばおいしい」という文脈を、主役の愛ちゃんだけがよくわかっていない。愛ちゃんが助けを求めるお母さんだって、その文脈をきちんと共有できているというのに。
(愛ちゃん、孤独だ…)と思った。

 さんまがじゃんけんでズルをして勝ち、先攻をゲットする。愛ちゃんはそれが悔しくてうわっと顔がゆがむ。ひな壇はさんまの大人げない(かのように見える)ふるまいに笑い、愛ちゃんの泣きのかわいさを笑う。愛ちゃんにはそれがわからないから、プライドを傷つけられたような気がして、また泣いてしまう。ひな壇のリアクションも大きくなり、さんまもヒートアップしてしまう。愛ちゃんが先にリードしていたのに、さんまが追い返していく。「やばいやばい」と周囲が煽る。愛ちゃんがまた悔しくて涙を流し、ラケットをぎゅっと握り直す。

 注目を浴びている本人だけが文脈を理解できていないというのは、とても残酷なものである。
 簡素なメール一本で急に仕事を引き継がれて案の定ミスを連発してしまい、方々に頭を垂れてつくばうか、はたまた逆ギレしてしまうかの瀬戸際を歩んでいる新卒社員と通ずるところがあるかもしれない。自分だけが文脈を理解できておらず、知識も経験も不足していて情けない。なおかつ周囲の人は自分が右も左もわからなかったころの感覚をすっかり忘れてしまっている。しかし新卒社員は一応20余年は生きてきているので、これまでの経験のストックもあるし、他者に救いを求めるなどしてだんだんに身の振り方がわかってくるだろう。そういう“処理可能感”、“把握可能感”が暗雲の向こうにうっすらと見えている。

 でも愛ちゃんは幼児だった。自分が泣くと大人が笑う。天才卓球少女としてテレビに出てやっただけなのに、わけのわからない大人たちに笑われている。それがなぜかわからない。わかるわけもないし、わかるための手段もわからない。

 愛ちゃんは最後、結局八百長のような感じでさんまに1点差で勝った。
 涙でぐちゃぐちゃになった愛ちゃんに、さんまが「負けるのが嫌いなんだ?」と聞くと返事をせずにうつむいた。あんなに泣いたのは、点を決められたのが悔しいからではなかったのだろう。

 愛ちゃんは八方塞がりの壁の中で、小さくて熱い悔しさの塊のようになるしかなかった。そういうことをわかる人が誰もいないのがつらかったのだ。

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