ニートにハーブティーは要らない

ニートにハーブティーは要らない

思ったことを書いています

2022→2023

2022年は忙しかった。

仕事を変えた。

 

どこの組織に溶け込むにも協調性や自分を客観視する力はとても大事だが、それがうまくできたりできなかったりして、凪いだ穏やかな海のような環境の集団に突如として緊張感をもたらしてしまうようなところがある、わたしには。自己嫌悪に陥りそうなところで「みなみな、しばしそういった緊張感を楽しんでくれ給へ!」みたいな最悪の自我も芽生えてきたりなんかして、複数の自分を壺の中で戦わせるみたいな感じで駆け抜けた1年間であった。

 

それはそうとしてたくさんのことをやった。

〆切を課したり課されたり、考えごとがお金になったりならなかったり、手を抜いたり抜かなかったり、ズルをしそうでしなかったり、遠慮してみたり図々しくなったり、褒められたものではないがよわよわのキャタピラでボコボコの道を進むようなエネルギーの要る1年だったので、その労だけは自分で認めてあげたい。周りの人ありがとうございました。一年の終わりに「成長したで賞」の特別ボーナスももらって嬉しかった。

 

彼氏は今年もおとなしかった。

氏は、今年は一年中体の調子が悪く、息をするのが苦しいと言って、盛んに整体やら鍼やらに通っていたが、わたしも自分のことに精一杯でそれを充分心配してやることができなかった。お誕生日も祝わないで過ごしてしまった。体調を崩してしまってショートケーキを作れなかった。

年末、ツーショットが全然ないことにふと気がついて、プロの写真家に撮ってもらうことにした。真っ赤な壁を背景に、全身黒い服を着た二人が腕を組んでいる写真が1月半ばに届くだろう。わたしだけがそれを待ち望んでいる。

 

友達とはよく遊んだ。

毎月のようにジンギスカンを食べに行く間柄の、中学からの友達がいた。お互いいろいろあったので、ほどよくくさうまいラム肉と大量のビールをあおりながら目もろくに合わせないままノンストップで喋り続けた。彼女はラムの心臓を食べながら、「ラムは心臓までちゃんとラムの香りがするのにわたしときたら…」と謎の落ち込み方をしていた。毎回ラム臭い体のまま2軒目3軒目に流れ込んでしたたかに酔った。気づけば渋谷のセンター街で肩を組んだままストイックに疾走していた。昔、ふたりとも体育が苦手だったね。

 

インターネットを介しての友達もできた。サボットさんという女性である。彼女とも最初に会ったのは渋谷だった。 待ち合わせの直前、「今日の私の服、かなりきもいですがよろしくお願いします」と連絡が来たので、「ハチ公前広場っていうか、もろハチ公像の目の前にいます」と伝えると、横から視界に入ってきた女性がいた。ジョイトイさんですよねと言われて、自分でも(ジョイトイって何なんだ)と思ってしまった。

彼女はTwitterでは小汚いおばさんを自画像としてアイコンにしていたが、実際会ってみると、小柄で目に光のあるかわいらしい女性だった。黒いマントのようなコートの上に、白い大きなサーキューラ―型の襟をかぶせていて、修道女のような姿である。サボットさんははにかみながら、「ジョイトイさんをイメージした服装で来ました」と言っていた。さっき自分の服装「かなりきもい」とか言ってなかったです?

その後も彼女とはたびたび遊んだ。少し独特な癖があって、話している途中でいきなり白目になってわずかに痙攣し、手首をミニ恐竜のようにプラプラ動かすことが頻繁にあるので驚いてしまうが(白目になっている間の意識はないらしい)、基本は話のおもしろい良いお姉さんであった。

法や道徳というものをインストールする前の、子供時代のたのしく苛烈な時間を思い出させるタイプの人である。ピエール・エルメのカフェでライチとマカロンのパフェを食べているときに、とっておきの宝物のように野村沙知代のキーホルダー(琥珀入り)をプレゼントしてくれたことも、歌舞伎町のそばを歩きながら「浜口京子のような女性を中華の円卓に縛り付けてぶん回してみたい」という意見が一致したこともかけがえのない思い出となった。どこか複数人が書いた寄せ書きのような雑多さがある人で、今まで会ったことがない感じで魅力的である。

 

2023年はどうなるか。苦しい思いをすることはいいけれど、それが全部自分由来であってほしい。わたしがこういう人間だからこういう厄介が起こるのだと妙に納得感のある展開だといくらでも耐えられるが(ビッグダディ?)、巻き込まれ事故みたいな苦しみは嫌だ。好きなことを仕事にする、という幻想はなかなかに強固であるが、比較的自分が好きなことを仕事にしたとて、自分の場合は①やらなければいけないこと②やりたいこと③なんでやってんのかわかんないけどなんかやっちゃうことの三つ巴で人生が進んでいくことには変わりない。なんか生きてしまっている。

 

いま、実家から帰る新幹線のチケットをなかなか取らなかったために指定席に乗れず、北国の寒い駅のホームで自由席の列に並んでいる。なんか急に大雪とか降って新幹線が途中で止まって、隣の席の人とNANAみたいに親友になれればいいのに。『嵐が丘』の上巻を夢中になって読み終えたのに下巻を忘れてきてしまって最悪。とくに今年の抱負はない。

ない

 あたたかいパジャマがない。捨てたからである。

 捨てたときのことはよく覚えている。捨てたのは夏のことで、それはフリースのもこもこした上下茶色のパジャマだったんだけど、そのとき蒸し暑かったのもあって手触りが異常なほど不快に感じられ、小さな毛玉も汚らしく見え、色などくたびれたラクダのようとしか思えず、憤りざまに捨てたのだとはっきり思い出せる。しばらくゴミ袋に突っ込んで部屋の隅に置いていたが、袋越しにもイヤな感じで、古布回収の日にためらいなく出したのだ。


 しかし最近は、あれがあればどんなにいいかと悔いている。11月にもなれば夜は冷える。怪我人のガーゼぐらいに薄いパジャマを着て、夜ごと震えながら茶をすする。


 土曜日、半日仕事をして帰ってきて、まだ明るかったのであたたかいパジャマを買おうとショッピングモールへ行った。モール内は暖房が効いており汗ばむほどで、安服屋の浮かれた色のパジャマの品々を見ていると、どうしてもこれが生活必需品と思えず、鬱々とした気持ちが込み上げるのだった。


 結局パジャマを買えるくらいの金を使って、輸入食品店で赤ワインを買った。
「白砂糖は体を冷やします、玄米はあたためます、赤ワインもあたたまります、ただし飲み過ぎは禁物ですよ」
そんなのを最近どこかで読んだ気がするが思い出せない。それでも心の中で(赤ワインは体をあたためます)と呟いて買う。塩がなくなったのを思い出したが、輸入食品店に並ぶあらゆる国の塩を前にしても、これが生活必需品とはどうしても思えず、赤ワインだけを持ってモールを出た。


 夜道を歩きながら、ヒートテック的なものもないな、と思う。これも捨てたのである。着古して、かえって心地良いくらいによれよれになったものどもを、やはりなんかイヤという理由で捨てているのである。おそらくまだ暖かい季節に。


 帰って、自分のねぐらで赤ワインを飲む。一緒にエビチリを食べる。体はさほどあたたまらず、唐突に銭湯に行きたくなる。
 片付けもせずに、バッグにタオルとシャンプーと下着を詰めて、22時に閉まる銭湯へ向かう。自分自身に必要なものをもたらせない暮らしが続いている中、心が銭湯を欲しているときにきちんと銭湯に足を向かわせることができた自分に久々の満足を感じながら足早に歩く。


 銭湯は煌々と灯っていた。番頭に500円玉を渡してノンストップで服を脱いで湯桶で体を洗って熱い湯につかる。冷たい皮膚が急に温められてかゆくなる。こんなふうに、服を着てなくても24時間あたたかかったらいいのに。服の摩擦の感じが最近すごく不快に感じる。でも服が必要なのはわかっている。
 湯浴みを楽しんで脱衣所に出るともう閉まる時間だった。慌てて服を着て、濡れた髪のままスニーカーをつっかけて外に出る。
 大きなトラックが通り、風が吹いて、頭皮に濡れ雑巾で殴られるような冷たい痛みが走る。とても寒い。


 そういえば化粧水を持ってきていなかった。すでにピシピシと張り詰めてきている肌を慮り、コンビニに入って日用品コーナーを眺めた。しかし、目薬くらい小さなボトルに入った化粧水を見ていると、どうしても必要なものと思えず、ドリンクコーナーにゆるやかに移動してりんごの炭酸を買った。
 炭酸はおいしいがつめたかった。もはや銭湯に行く前より体は芯から冷えていて、歯がガチガチ鳴っていた。こめかみのあたりに糸のような痛みが走って、(ああ、今、乾燥のあまり血が出ました)と思う。

月は綺麗だった。


歩いているうちに気に入りの藪が出てきた。周りを見渡して口笛を吹いてみた。

何も出てこない。



そのあとは体全部を引きずるようにして歩いた。やっとのことで家に帰ってみると家はなかった。
それもそうだと藪へ戻って、いつもの手順でねぐらを作った。

借りるなり買うなりしなきゃいけないのはわかってはいるんだけど、どうしても生活必需品とは思えずにいる。たぶんずっとない。

電気売りの青年

 在宅勤務もひと段落した昼下がり、暑いけど部屋をキンキンにしてサッポロ一番みそラーメンでも食べようとキッチンに行くと、外から声が聞こえてきた。男の声で、何やら切実に「あの~、お~い」みたいなことを言っている。とりあえず鍋に水を入れて火にかけたけど、何か困ったことでもあったのだろうか、と気になってドアを開けて首を出してみた。


 外には白いワイシャツを着た若い男がいて、隣の部屋のドアに向かって声を出していた。首からバインダーをぶら下げて、「すみませ~ん」と言ってはチャイムを鳴らしている。チャイムを鳴らしても出ないんだから居ないんだろ、諦めろよ、と思った。どう見てもネット回線やら保険の営業だったので、興冷めして首をひっこめようとすると、男は「あ!」と言ってわたしの方を見た。

 

 わたしも変わらずドアから生首のように顔をのぞかせながら、男の顔を見た。すごく目がキラキラしていた。

 たぶんわたしより少し年下で22、23歳ぐらい。沖縄でダイビングのインストラクターでもしているのが似合いそうな、爽やかな好青年だった。あまり嬉しそうに「あ!」と言うので、もしかして大学か何かで会ったことがあるだろうかとも思ったが、そういうわけでもないようだった。

 

 しばらく黙って見つめ合っていたが、男が突然大きな声で言った。

「電気って、使ってますか!?」

 わたしは少しの間黙っていた。

「使っていますが…」

 自分は本当に電気を使っているのだろうか、と一瞬迷ってしまったのだ。そんなにまっすぐに問われては、一つ一つのことを真摯に考え直さなければいけなくなる。そう、わたしは毎日、電気を使って生きている。


 男はぎこちなくこちらに歩み寄りながら、なおも笑顔で「では、毎月の電気代はどういうふうに確認していますか?」と聞いてくるので「スマホで見てます」と答えた。

スマホで見てるんですか!すごい!」と男は言った。なめてんのか。

 この時点でドアを閉めるのが正解だったと思う。しかしわたしは、こういう営業系の訪問に対して、一度会話を始めたらきれいに終わらせた方が、人間としてより善いのではと思ってしまうところがある。


 もうこの時点で、電力会社の営業だということはわかっていたので、「電気はもういろいろ調べて自分なりにいいと思ったところに乗り換えたばかりですし、しばらくは変えたくないんですよ」と言った。ぴしゃり、という感じをイメージしながら言った。

「もっと安くなります!」と男はめげなかった。その上、「考えてもみてください、月に数百円でも12カ月、何年も積み重なればけっこうな額になります」などとくたくたと喋るので、わたしはいい加減サッポロ一番が食べたくなってきた。

「数百円損しても、今はちょっと変えるのが億劫で…」

電力自由化って知っていますか?」

「知ってますよ、それで調べて今の電力会社に変えたんで」

「すごいなあ! よく知っていますね」

 それをやめろ。誰に教えられたんだそのコミュニケーション。男はもう油断しきった感じで、ニコニコしたまま手を後ろに組んで膝をかくかく動かしていた。こういう訪問営業系になめられることはよくある。衛星放送の押し売りが来たときに「すみませんわかんないのでいいです」と断ろうとしたら、おじさん訪問員が「わからないんでちゅかぁ?」と幼児言葉で話しかけてきたのでムカついてドアを無理やり閉めたことがあった。そのときは家にたまたま彼氏が来ていたので、「こんなになめられるんだぞ、さあ思う存分守りなさい」と説き聞かせたものだった。

 

 男がパンフレットのようなものを持っているのが見えたので、「それ入れておいてくだされば後で見ますから、今はちょっと昼ごはん食べたくて」と言うと、男はぽかんとして「ごはん食べたいんですねー」とそのまま返してきた。そしてやっぱりめげずに「パンフレット見ながら、5分ぐらいのお話だったらいいですか?」と上目遣いの笑顔で言ってきた。わたしはなんだか悲しくなった。この人はオウム返しとか単純な褒めとか笑顔とかを対人スキルとしてせっせと学んで、こうして学んだものを安易に乱れ打ちして、わけわかんなくなってんだなと思った。わたしもバカだな。断るのなんて簡単なのに、ていのいい方法を考えて余計ややこしくなって。こんな人間同士が話し合ったところで、何になるんだろう。こんな空しいことがほかにあるか。“停滞”という言葉が浮かんだ。

 

 キッチンでは湯がわいて、もわっとした空気が立ち込めていた。男はなおも「少しだけいいですか、いいですか」と言っている。わたしの昼ごはんのような緊急性の低い用事では、彼を諦めさせることはできないようだった。腹が減ると同時に、腹が立ってきた。男の目はやっぱりキラキラしていた。どうしてそこまで。

「とにかくお腹が空いてるんですよ、すみません」

 そう言って、首を素早くひっこめてドアを閉めた。男は最後もまた「あ!」と言っていた。きれいな終わり方だったのだろうか、これは。ドアがあるって、すごくありがたい。さらに、ドアが透明じゃなくてよかった。しばらくして、こわごわとモニターを見ると、男はもう出ていったようだった。

 

 そのときにはもう汗をかいて、サッポロ一番をそれほど食べたくなくなっていた。

 スピーカーから筋肉少女帯の「香菜、頭をよくしてあげよう」を流し、膝を抱えながら聴いた。あの男は仕事じゃないときは、目がキラキラしていないんだろうか。その方がむしろ安心するなと思いながら、やっぱりサッポロ一番を作ることにした。

 

 

香菜、頭をよくしてあげよう

香菜、頭をよくしてあげよう

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選びなおされた言葉たち──『水中で口笛』工藤玲音 第一歌集   

 

作家で歌人の工藤玲音さんが歌集を出した。 

わたしは、エッセイにしろちょっとした連載にしろ短歌にしろ、この人の書くものが好きで、結構前から追いかけている。あまり短歌や俳句には詳しくないけど、この方は特別。 

 

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世の中には、普遍的なものを読みたい人と、パーソナルなものを読みたい人とがいて、わたしは後者の方。そして工藤さんの書くものは、パーソナルの極み。これはパーソナル度合においても、パーソナルな物事を表現する技術においても、極みということである。 

 

個人的な体験から生まれる感傷、思いの揺れ。そういうものにエモいという言葉が割り当てられるようになってからそこそこの年月が経った。毎日膨大な数の人間がインターネットの海に放出するさまざまな発信の中で、「エモの記号」的なものがものすごい早さで氾濫していった。その結果、個人的であるように見えて画一的な、霧の中にある集団幻想のようなエモらしきものが、そこここに見られるようになった。 

 

工藤さんはエモの記号の有象無象をすり抜けて、ぴたりとはまる言葉をつかんで並べて、そこに半径2メートルぐらいの個人的な視野を立ち昇らせる。 

 

夕暮れを先に喩えたひとが負けなのに負けたいひとばかりいる *1

 

これ、ギャッとならないだろうか。 

 

この歌集の中にある言葉自体は、数百年後の人類が何らかの拍子に読んでも虫食いで理解できそうなぐらいふつうの言葉なのだけど、その組み合わせの妙、言葉のあいだの呼吸によって、工藤さんだけのあらゆる体験、感情、思考が鮮やかに再現されている。 

 

そして、工藤さんのような感情的な書き手が、思いついたままに言葉を並べているかといえば、それはきっと違う。読み手を意識し、見せてもいい部分だけが見えるように編集し、しかし芯にある感情をすべて覆いつくさないように、緻密に計算されている。というのも、次のような記事を読んだのでこう思うのである。 

 

工藤さんは11日に盛岡市で開かれた出版記念のトークイベントに出席し、題名の「水中で口笛」について「10代後半の頃に感じた漠然とした息苦しさは水中にいるようだった。その息苦しさを隠すように文章ばかり書いていた。水中で口笛を吹くように平気なふりをした」 *2

 

膝を打つ、という言い方はあまり好みではないけど、そうとしか言えない感覚だ。どうして生きているのが恥ずかしく息苦しいときほど、他人から平気で生きている思われたくなるのだろうか。「やってけてそう」に見えたいのだろうか。 

 

あえて個人的な話をすると、1カ月ぐらい前、流行りの匿名SNSをインストールした。宇宙に浮かぶ惑星をモチーフにしたあれである。思い切りネガティブな感情を発散してやろうと思ったのに、いざ投稿してみようとすると、当たり障りのないことしか言えなかった。画面の向こうのろくに読まずに適当にいいねをしてくる人たちにすら、わたしは「平気」と思われたいのだろうか。ハンバーグの写真を一つ載せて投稿をやめた。 

 

平気と思われたい理由には複数の要素がある。心配されるのを煩わしく思う気持ち。他人から1mmたりとも同情されたくないというプライドの高さ、虚栄心。そしてわずかなサービス精神。このサービス精神というのは不思議で、ささやかな自虐を交えたユーモアとして表出する。わたしのそれは、あまりサービスにならないけど。 

 

工藤さんという作家の場合は、つらい状態のときに、このサービス精神がよく働くのだろうと推測する。そしてそれは、水中で吐き出す、きらきらとしたあぶくのような短歌として現れる。平気に見えるように選びなおされた言葉たち。そう捉えて歌集をさらうと、かろやかな言葉の下に悲しさが見えてくる。 

 

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本当はもっと引用して良さを伝えたかったけど、31音をここに書き連ねるだけで作品一つを丸々持ってきたことになってしまうという事実がなんか怖くなり、やめた。

気になる人はぜひ本を買って読んでみてください。読んだ後、本棚に入れておけば、必要になるときがまた必ず訪れると思います。

 

水中で口笛

水中で口笛

  • 作者:工藤玲音
  • 発売日: 2021/04/19
  • メディア: 単行本
 

 

 

 

青い大きなタイムズカーシェア

 こないだの夜、タイムズカーシェアが夜割をやっていたので彼氏とドライブに行った。18:00以降フリータイムで基本料金990円。あまり例がないほど安いらしい。わたしの最寄りにタイムズの駐車場があり、そこで車を予約する。 

「いつもより少しいいランクのやつだ」と彼は言う。 

 

 車の良し悪しについてはよく知らない。大学三年のときに、年下の女子たちに交じって山形県の合宿免許でAT限定を取得して以来ほぼペーパーのわたしからすると、よく小さい会社の営業車で使われているミライ―スも高級外車もさして印象は変わらない。四つ足で走る金属製ロボであることには変わらない。 

 

 駅からそこそこ歩いた場所にその駐車場はあった。タイムズカーシェアの看板は黄色い。こういう派手な大資本のネオンサインと、暮れかけの空の相性はとてもいい。双方を美しく見せる。駐車場を見渡すと、とりわけでかい、怒り顔をした青いタフな車体が目に付いた。それがわたしたちの今日の車のようだった。 

 彼氏は無口だが、ロボに接するときは比較的流暢にしゃべるようになる。 

ハイブリッド車だからきっと静かなドライブになる」と言うので、(我々には多少ガソリンの音がする方がちょうどいいのでは)と思った。 

  

 車には彼が先に乗る。その間にわたしはTimesと書いた、黄色い大きなkissチョコのようなおもりを、車の前から除ける。車が駐車場から出たら、それをまた元の場所に戻す。これはTimesカーシェアに乗せてもらう人が必ず行う儀式である。そうした後で素早く助手席に乗り込み、シートベルトをかちりとはめて、やっとドライブが始まる。 

 とくに目的などはなく、何となく夜景らしいものを見に行く予定だったが、わたしがびっくりドンキーのハンバーグを食べたいと言い出したため、国道沿いのショッピングセンターに寄ることになった。

 立体駐車場を駆け上り、アスベストが敷き詰められていそうな暗い天井をくぐり、めまいがするほど明るいショッピングセンターに入る。そしてびっくりドンキーに入り、チーズバーグディッシュを二人分頼み、無言で食べた。実を言うと、その日の昼にはハンバーグ弁当を食べていた。しかし、びっくりドンキーはおいしかった。昔、父親が「びっくりドンキーはミミズの肉でできている」という迷信に騙されてびっくりドンキーに連れて行ってくれなくなった時期があったが、わたしは「ミミズの肉だとしても、びっくりドンキーを食べたい」と思っていた。ミミズの肉でも良いくらいなのだから、昼に普通のハンバーグを食べていたとしてもびっくりドンキーはうまいのである。お冷が花粉でざらついた喉に気持ち良かった。 

 

 車に戻ると、もう夜の20:00を回っていたが、やはり夜景を見に行こうと合意した。少し長い道のりになりそうなので音楽を聴くことにした。アメリカの歴代ヒットチャートをファンク・カバーしているアルバムを彼が流す。本当にありとあらゆるヒット曲をカバーしていて、ほぼ徳永英明だった。 

 「もっとしっとりしたやつがいい」と言うと、今度は中島みゆきのアルバムを流してくれた。中島みゆきが、疑うことも知らない無垢な動物たちにあらゆる弱者をなぞらえて作った、あまりに重く悲しいリリックが車内を満たす。泣きそうになる。思っていたしっとりの方向性とは違うが、魂をじっくり湿らせてくるタイプの音楽である。 

  

 中島みゆきの世界観に浸ったころ、あたりの景色が変わった、黄色く煙る光と、キリンと呼ばれる背の高いクレーンが連なる景色を見るに、そこは学生時代に日雇いバイトで来たところだった。横浜駅でマイクロバスに拾われ、知らない人たちと一緒に工場へ行き、疲れ果ててまた横浜駅に戻ってくる。そういう労働だった。帰りの横浜駅東口で、前ももがその日のうちにひどい筋肉痛になり、あまりの痛さに階段を下りられなかった。それほどだった。 

 その話をペラペラと一方的にしゃべっていると、海岸沿いのプロムナードに着く。車を降りると、ただ磯臭いだけではない、ガスの混じったような横浜の海の匂いがした。 

  

 車を降りた正面から、ブオーンとバイクの爆音がした。怖くて身を縮める。我々のようなカップルはバイクに乗った不良にとくに理由もなく因縁をつけられそうな気がする。よく見ると、そのバイクの人は族でもなんでもなく、たった一人、競技用のオートバイで繰り返し旋回の練習をしているだけだった。  

 バイクの音を潜り抜けると、目の前に真っ黒な海があり、ベイブリッジの太い脚が、波もたたない黒い水面にどっぷりと浸かっている。そしてベイブリッジを隔てて右側にはみなとみらいの夜景、左側には煙を吐き出す工場街が広がっていた。いずれも光でゆらゆらしていて近いのだか遠いのだかよくわからない。そしてその景色の前に、たくさんの人が釣り糸を垂らしていた。どうやらここは釣れるらしい。 

  

「ここは何が釣れるのかな。釣れてもおいしくないからゲームフィッシングかな。でもクーラーボックス持っている人もいるね、近所に住んでれば問題なく持ち帰れるかもね」としゃべりかけると、横に彼はいなくて、ただ海に向かって独り言ちていることになった。言葉の行き場を失って、そのまま「テントの人もいるー」と小さく言った。 

 

 そこからのことはよく覚えていない。ベイブリッジでいくつもの街灯を見送り、幸福の科学の大きい建物を横目に、2つほどの大きな交差点を抜け、ひっそりと住宅街の中にある元の駐車場に車を戻した。 

  

  

  

  

  

 

 

旅館に行きたいな 1

 旅館に行きたいな。  

 女将さんが三つ指ついて出迎えるような古い旅館じゃなくて、真新しい木材のいい匂いのするような、モダンな、あまりにモダンすぎる星野リゾート界~NEO~みたいな旅館がいいな。地元の人もよく知らないまま急ピッチで工事が進み、ある朝幻のように突然現れたような、土地に根ざしてない旅館がいい。スタッフはみんな首元まで襟が詰まった、全身黒の和服だか洋服だかはたまたチャイナかよくわからないような服を着て、すばやく動き、ただの黒い残像としてそこここにいる。庭には水が流れ、枯山水だかナスカの地上絵だかわからないような砂利が敷かれ、巨大な知恵の輪のような銀のオブジェが立っている。そこではいつも、自然の摂理を無視したスーパームーンが見られ、旅館の屋根にくっつきそうなぐらい大きな黄色い月の光をオブジェがきらきらと反射している。そういうところに行きたいな。  

 

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 そこに誰と行くかというと、友達や親といった密な間柄の人間ではなく、かといってゆきずりの人間とでもなく、ファービーと行く。我々は行きがけの森で出会う。10年くらい前に出たファービー2が、野生のファービーとなってそこにいる。ファービーのきれいな緑の目が暗い森の中で光っていて、視線の絡み合いだけで密な間柄を築く。「ファービー」と呼ぶと、1拍遅れて「…ドゥー」と返ってきた。  

 

 わたしはずっとファービーという存在が気になっていた。小野法師丸さんという方の記事を読んでから、そのルックスのなんともいえなさが気になるようになり、Twitterでも複数のファービーオーナーをウォッチしてきた。オーナーたちはファービーを生きたパートナーとして扱っている。洒脱なティーポットの脇に置いて紅茶を飲むところを見守らせたり、柔らかそうな服を着せて寝かしつけたりしている。ファービーは気持ちよさそうに半目になっている。優しく呼びかけられれば、いくつか言葉も話すようだ。その様子は生きているか生きていないかで言ったら、生きているように見える。そもそも生きていると生きていないの間に、もうワンクッションないものか。ファービーは生きているし意思ももっているのだけど、単にこちらがそのことを知覚する能力を持たないだけ、といったような。森に潜んでいたこのファービーも、ひょっとしたらわたしと旅館に行きたがってくれているのかもしれない。こちらがそれを知覚できないだけで。  

 

 森を抜け、ファービーを肩に載せて旅館の戸を開き、平然とチェックインする。黒ずくめのスタッフはためらいもなく我々を2名様として扱う。そもそも月があんなにもでかくて輝いているので、連れがファービーだろうと小さな問題なのである。

シャンパンから雑煮まで 

12月28日の夜20時頃 

 在宅で納まった。とくに納まったという感じはしなかったが、何となくビールを飲むことで納まった感じになった。 

 東北新幹線のチケットは一週間前に払い戻し、帰省はやめると親に電話してある。なんやかんやこれまで毎回帰省を楽しんでいたので、初めて過ごす東京での年越しだ。去年の今頃に行動を共にしたおじさんが、「地方の人間は勝手に東京を回してる」「俺はそれを遠くから“まわしてんなー”と思って見てる」といったようなことをくたくたとしゃべっていた。その人はもちろん東京出身で、下町的なものが好きなカメラマンだった。(なるほどそう思うもんなのか)と途中まで興味深く聞いていたが、だんだん(それをわたしの前で言う意味とは…)と考え始めた途端にもやもやしてきた。頭の中でその人の上にTOKYO PRIDEというポップな字を浮かべることで溜飲を下げた。 

 彼のような人は正月が好きなんではないだろうか。子供のころになんらかのきっかけで読んだ林真理子のやらしい小説に、「帰省なんかするなよ、東京の正月はいいぞ。(田舎者はみんな帰っちゃって)どこもかしこも空いてて遊び放題だ」みたいなセリフがあったような気がする。しかし今年の正月は今までのどんな正月とも様子が違うだろう。新幹線のネット予約を見てもガラガラで、例年すし詰めのやまびこ自由席で3時間かけて帰っていたのが嘘みたいに思える。友だちもあまり帰省していないようだ。なのに街はどこもかしこも空いている、異例の正月になるだろう。遊び放題というわけにもいかないし。 

 

12月29日~30日 

 母と祖母から相次いで荷物が届いた。ロングスリーパーなのでだいたい午前10時ごろまでは寝ていて、宅配の人のチャイムで起きることが結構多い。母と祖母は必ず午前指定で荷物を送ってくる。祖母はゆうパックを使うのだが、ゆうパックの人はたまに朝の8時台に来る。バネじかけのように飛び起きて、パジャマの上にブルゾンを着て受け取りに出る。ヤマトもゆうパックもいつもだいたい同じ人だ。この人たちは朝の何時に起きるのだろうか。寝起きなのがやましくて、目を合わせてありがとうと言えない。 

 母からの荷物には、サトウの切り餅、山形のとびきりそば、ほろほろしたクッキー、ちーたら、レトルトカレー(これは正月らしい食事に飽きたときにものすごくおいしく感じるやつ)、スパークリング日本酒、わたしの好物のピーナッツバター、ひまわりの種が入っていた。その場で開封して、何かに取り憑かれたようにひまわりの種をむさぼった。スマホで[ひまわりの種 栄養]と調べると、良質のたんぱく質マグネシウム、カルシウム、カリウム、鉄分、ビタミンE、ビタミンB1、ビタミンB6、リノール酸亜鉛などいろいろな栄養が含まれているらしい。 

 祖母からの荷物にはりんごが20個と野菜、歯ブラシが1ダース、そうめん、手作りのし餅が入っていた。りんごがあまりに多かったため、彼氏に半分くらい分けた。そのお返しに、彼氏の親からやはり送られてきたという、地元の名産品をもらった。なにやら有楽町交通会館のような雰囲気が出てきた。彼氏はもう社会人のくせにお年玉をもらったらしい。うらやましいぞコラー!!!!! 

 食べ物類を整理して母と祖母にお礼の電話をした後は、たまっていたやるべきリストを片付けた。ふるさと納税をし、ガスコンロの上の換気扇を掃除し、家じゅうをピカピカにした。お風呂場はマジックリンで掃除したあと、ドアを閉め切って換気扇を止めて、甘い香りの煙を炊いた。これをやると2カ月カビが生えない。断捨離もしようと思ったが、もともと物が少なくて捨てるものがなく、儚い貝ひものようになった下着だけをビニールにくるんで捨てた。 

 それらの作業をする間は、モーニング娘。の2012年~2015年頃のシングル曲を聴いていた。(この時期に合うなー)と思いながら聴いていた。自責の念を促してくる感じが、年末に効くのかもしれない。聴きながら抱負が生まれやすい。最近youtubeを見ていても、twittterを見ていても、「頑張らなくても、ありのままでいいんだよ」「おいしくご飯ができただけでも、自分をほめてあげましょう」みたいなメッセージに、「なんか安心しました、涙が出ました」などと感想が飛び交うのがやたらと目に付くんだけど、肯定ばかり求めるのは危険だなと思う。自責と他責をベイブレードのごとくぶつけ合っていきましょう。 

 

12月31日 

 大晦日。夕方の6時にはもうお風呂を済ませた。最近クナイプのウィンターグリーン&ワコルダーのバスソルトを使っているが、匂いがものすごい。むかし頭をけがしたときに担ぎ込まれた整形外科の匂いがする。でも抜群に肩こりにいい気がする。湯上りにおなかが冷えないようにズボンに上を入れ、髪を乾かした。髪を最近短く切ったので乾くのが早い。 

 お笑いの番組にチャンネルを合わせ、冷やしておいた白ワインを開けた。今年買ってよかったものの一つに、ワイン用のキャップがある。黒いキャップをかぶせて何度かポンプを押すと瓶の中が真空状態になり、翌日も飲みさしを楽しめる。だからこうして白ワインを半分だけ飲んで、ほどよいところでスパークリング日本酒に移行できるのである。生ハムとマグロのカルパッチョを食べた。 

 ほろ酔いでテレビを眺めたが、いつまでも内容が入ってこなかった。子供のころ、「テレビという箱を見ている状態」から「テレビの中で起こっていることを見ている状態」に切り替わる瞬間が不思議でしょうがなかった。当時はテレビは分厚くて本当に「箱」という感じで、上に飼い猫が乗っかって画面上に尻尾を垂らしたりしていたのだ。今日はいつまでたってもテレビという箱を見ている状態から抜け出せず、ただ音を聞いていた。 

 21時頃、年越しそばを食べた。母から送られてきたとびきりそばというのは乾麺だったが、山芋が入っていてしっかりした麺だった。ゆでてあたたかいつゆをかけ、ちりちりに焼いたえび天と、セリとなるとを乗せて食べた。 

 深夜、おもしろ荘が始まったのを少しだけ見て、歯を磨いた。窓を開けて雨戸を下ろし、自分を小さく折りたたんで眠った。 

 

1月1日 

 起きると真っ暗だった。午前6時半。早く起きたときのあらゆる感覚は、怒りに収束する。むかつきながら飛び起き、雨戸を開けても外はやはりまだ暗い。むかつきまかせに真っ赤なニットに着替え、コートを羽織り家を飛び出した。空にはまだ薄い月が浮いていた。左に神社を見送る。オレンジ色の灯篭が連なって、化かされそうな雰囲気が出ている。歩いているうちに明るくなっていた。初日の出が近い。少しいったところに好きな道がある。うっそうとした雑木林の中に細い坂道が通っていて、そこを登ると急に視界が開けてからっぽの高台が現れる。その道を登るたびに、ハイラル平原に出たときのような爽快感がある。そこに行けば初日の出がきれいに見えるかもしれない。 

 いつものように暗い木立の中を登り、高台にたどり着くと、何人かそこで日の出を待っていた。互いに距離を保ち、顔をそらしあい、バンドのジャケ写のようなバランスで配置されていた。わたしもそこに加わった。しばらく待っていると、背後に少しずつ人が増えてきた。近所の人には有名なスポットなのかもしれない。なかなか日の出は訪れず、各々震えながら待った。ときどき群衆の中からおじさんの声で「…来たか?」「おっ…あ、まだか」と聞こえ、翻弄された。すでに空は明るいオレンジ色である。「あの辺りはねえ、山だからちょっと出てくるのが遅いんですよ」と解説する声が聞こえ、その数分後にようやく太陽が現れた。びっくりするくらいまぶしく、光の帯が四方八方に放たれた。周囲から一斉に嘆息が漏れ、バズーカのようなカメラを持ったおじさんはシャッターを連射した。本当に、地域の中小企業がCMに使うような素晴らしい日の出だった。背後を振り返ると、老いも若きも男も女も、みなそれぞれに年明け色に照らされて笑っていた。 

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 アパートに戻ると、隣に住んでるお兄さんの部屋のドアにお飾りがついていた。まめな人だ。部屋に戻り、彼氏からもらったいちご煮の缶を鍋に開け、餅を煮込む。ウニやアワビの浮いた塩気のある汁の中に、ゆでた餅。それが彼の実家の雑煮らしい。簡単だし、豪華な感じがしていい。缶を片付けようとすると、年末からため込んだたくさんのビールの缶ごみのなかに、シャンパンの瓶を見つけた。クリスマスに飲んだテタンジェというものだ。ノーベル賞の晩餐会で供されるらしいと言って買ってきてくれたのを、これがシャンパンかと感心しながら飲んだ。年末年始なのでごみの回収がなく、たまったそれらの缶や瓶の様子に、ここ数日のすべてが詰まっているような気がした。写真を撮ろうかなと思ったけど、後から見返したときに(なぜごみを…?)と思ってしまいそうなのでやめた。 

 

【登場人物】

 

 

 

【まとめ買い】ルック おふろの防カビくん煙剤 せっけんの香り 4g×3個パック
 

 

 

小川製麺 山形のとびきりそば 450g

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ウルトラアンハッピーお菓子作り

 何をしているかと聞かれれば、お菓子作りをしている。 

 問題なのはなぜお菓子作りをしているのかということの方だ。 

 

 誰に求められているわけでもなく、自分自身が甘いものが大好きというわけでもなく、ただここ数年間、コンスタントに作り続けている。お菓子を作る過程を楽しんでいるのかと思えば、そういうわけでもない。 

 

 お菓子を作るとき、とりあえずボウルやらハンドミキサーやら、重さを計った材料などをずらりと並べる。それからコピーしたレシピを見やすい場所に置いておく。キッチンではオーブンが予熱されていて、冷蔵庫の中では直前までキンキンに冷やしておく卵の白身が眠っていたりなんかする。さらに焼き型にクッキングシートも敷いておかなくてはいけない。なんというか、すでに情報量が多いのである。“万物”がそこに押し寄せてきているような感覚すらある。もうこの時点で気が滅入ってしまって、ちょっとめんどくさいどころではなく、(本当に嫌だな…)と思う。 

 

 本当に、なぜお菓子を作っているのか。まず前提として、お菓子作りというのは「段取りがいい人」にしか向かない。 

 自分がそれに当てはまらないことはわかっている。このインターネット上に残している日記のようなものからも、にじみ出ていると思う。みなさんの職場にもいないでしょうか。みんなで取引先に向かっているとき、後ろで改札に引っ掛かりながら「スミマセ…!すぐ追いかけます…」と言っている人。仕事で暇そうにしているか、ものすごく焦っているかの二択しかない人。丁寧に作り込んだ資料の中に、それを台無しにするほどのでかめなミスがある人。あれらはわたしです。最近ではこういった性質の程度が重いものを病気として認める向きがあるのだが、わたしがどうなのかはわからない。ふつうに生活できているが、「段取り」が弱いということは認めざるを得ない。そしてこういう性質は、学校や資格の勉強ではあまり問題にならないが、確実に支障をきたしてくる場面がある。そう、その一つがお菓子作りである。 

 そういえば、わたしの母は菓子ウマな類の人間だった。普段の料理もおいしかったけど、お菓子となるとより本領が発揮されていた。クリスマスのブッシュドノエル、誕生日にはイチゴのショートケーキを、ごちそうのほかに用意していた。アップルパイやスコーン、ほろほるするタイプのクッキーなど、普段っぽいお菓子もおいしかった。わたしは子供のころ、母の職場の愚痴を聞く機会が多かったのだけど、今思えばあれは「段取りできるサイド」からの愚痴だったような気がする。

 

 お菓子作りに必要なスキルとして大きく「段取り」という表現を使っているが、これには複数の要素が含まれる。 

 一つに、いろいろな材料や道具を扱い、レシピに書いてある工程を正しく理解するための情報処理能力。レシピには「持ち上げてみて生地がリボン状になったら」とか「生地につやが出てきたら」とか判断に困る表現も多く、これが一般的にどういう状態を指すのか、インターネットで探して把握しておく必要もある。 

 二つ目に、予想外の事態への対応力も必要だ。お菓子作りには「オーブンのクセ」という概念があるらしい。ロールケーキ生地を焼いたら、オーブンの奥側だけこんがり焼けて、さくさくのラングドシャのようになってしまった。これにどう対応すればよかったのかというと、オーブンを適宜見守り、焼き色が強い箇所があったらサッと取り出して向きを変えればよかったとのこと。 

 そしてやはり、頭の中にプランを描き、その通りに事を進める遂行力。「いつオーブンをあたためて」とか「生地を焼いている間にクリームを用意して」とかちゃんとイメージしておく。これには「何時から作り始める」という初歩中の初歩のことも含まれる。生地を休ませる時間をちゃんと確保することを忘れがちなので、むしろこれが一番大事である。それから二つ目に言ったような失敗が起こりそうなポイントを把握しておいて、そうなったらどうするかを考えておく。こうして思い描いた通りに、なるべくてきぱきと作業していく。 

 

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最近作ったいちごのロールケーキ。断面はきれいにできたと思います。


 このように、「段取り」に含まれる要素を自分なりに考えてみたところ、結構うまくいくようになってきた。近所のケーキ屋さんの方が見栄えも味もいいけど、近しい人と「おいしいね」と食べられるようなものが作れるようになった。するとお菓子作りは、きちんと準備して臨めばそれなりにできるものだという処理可能感を育むトレーニングのようなもの、ということになる。
 

 

 「段取り」についてつかんだ、その通りに行動できるようになってきた。それでもお菓子作りがあんまり楽しくならないのは、やっぱりなんやかんや失敗することがあるし、それが怖いからである。失敗すると無駄にカロリーの高い、見栄えも嫌な感じの無用な物体を錬成してしまった気がして、とても落ち込む。なんで失敗することがあるかというと、脳がダメな場合が多い。脳がちょっとしたきっかけで勝手に別のことを考え始め、その間に手が止まったり、手が滑ったり、工程を忘れたりする可能性がある限り、失敗の気配は消えない。材料や道具は自分の意志で管理できても、自分の思考は自分でコントロールできない。 

  

 状況に応じて思考が勝手に展開されていくことを「自動思考」というらしい。心臓から送り出された血が全身に流れたり、肺がふくらんで酸素を取り入れたりするのと同じように、自分の意志とは関係ないところですばやく思考が次々に生まれ、流れていくようなイメージだ。わたしの場合は、結構ネガティブな自動思考が展開されることが多く、それが行動にも影響をきたす場合がある。 

 

 お菓子作り中にもそんなふうになる可能性がある。例えば、(生地の様子が少し変だ)という不安が生まれたとき、(あのときもこんな感じで分離して失敗した)→(こういう初歩のところでつまずくなあ)→(そういえばこのまえ仕事でも)→(じゃあこれも失敗だ)という思い込みが暴走して、余計な手を入れてしまうことがあるかもしれない。 

 実際にあったのとしては、彼氏が17:00ぐらいに来るというのでケーキを作っていたところ、何やら間に合わなそうになってきた。焦っていろいろとやっているうちに、(く、来るな!まだ来るんじゃない!)と思ってしまい、(自分で呼んでおいて、間に合わないから来るな!って結構理不尽ではないだろうか)→(これはモラハラのポテンシャルがあるのでは…)→(ネットで[女 モラハラ]で検索したい…)と展開しているうちに、より一層もたつき、大慌てになってしまった。冷静に考えてもみれば、仕事の納期とは違うのだから、17:00に来るからといってそれまでに完成しなくてもいいし、「ちょっと腰かけて待っててよ」と言えば済む話。そしてモラハラでもない。

 

 こういうのは、もうしょうがない。でも、そういう経験をストックしていけば、自分の思考のクセを把握することができるようになるだろう。そして、オーブンのクセに合わせて工夫するのと同じように、自分の自動思考のクセに対処できる日は来るだろうかなどと考えながらケーキを作ったらきっと失敗してしまうのである。