ニートにハーブティーは要らない

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よく深夜に更新します

ある夜、TはUFOを見たことがあると言った

 

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https://mnsatlas.com/?p=10713

T*1と一緒にわたしの家まで続く坂道を歩いていたときのこと。夜空にみどりがかった光の玉が動いていて、それはどう見てもUFOではなかったんだけど、親しい人間と過ごしているときは許される範囲でいい加減なことを言ってみたくなるもので、「UFOがいるね」と話しかけてみた。わたしの頭のはるか上にTの顔があって、その表情は読み取れないのだけど、無口な彼が何かを頑張ってしゃべろうとするときの「スゥ」と息を吸い込む音が聞こえた。

 

「……………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………違うね。」

 

わたしは彼が「スゥ」という音をたてて、「………」の沈黙を提供するあいだ、いつもどんな素敵な言葉を聞くことができるか期待に胸をふくらませて待つのだけど、たいてい拍子抜けするようなことしか言わない。でも、彼が何か村上春樹作品のピロートークのような小洒落た冗談でも言うようになったら、春の熊くらい好きだよなんて言うようになったら、それこそ本当にUFOが突如として東京のど真ん中にミステリーサークルをこしらえ、人類の終わりを宣言しそう。実はTは他の星からの刺客で、地球に襲来したビロンとした宇宙人たちの中央に立ち、あの無駄に長い脚をバタバタさせながら勝利の舞を踊りだすかもしれない。そしたらわたしは「どんなフラッシュモブ??」って言いながら頭ぶち抜いて死んでやろう。そうしよう。

 

と、こんなことを考えるでもなく考え、つまらぬ冗談を言ってTからの物足りない答えに拍子抜けしている自分に少しあきれていると、Tの口から思いがけない言葉が飛び出した。

 

「見たことあるんだ。車のなかから。」

 

「うそだ。」

 

疑うわたしに、Tは確かに見たというUFOの特徴を静かに静かに教えてくれた。そのオレンジがかった光は何の軌跡も描かずに、突如として夜空に現れ、ヒャンッヒャンッと不規則に高速で移動し、やはり軌跡を描かずに突然消えたらしい。彼はその光を見たことがあるからこそ、わたしの安易なUFO宣言に「否」と言ったのだった。

 

「それいつのこと。」

 

「小学校高学年くらいかな。」

 

前に聞いた話だと、Tはその小学校高学年あたりから著しく無口になったらしい。そして身長もめきめきと伸びた*2

 

「そのとき、UFOに連れ去られて改造されたんじゃない?」

 

そう言ってTの答えを仰いでも、何も言わない。

 

「………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………。」

 

繋いだ手はいつも冷たい。

 

この人は実は本当に宇宙人なのかもしれない、と思いながらわたしも押し黙って坂をのぼった。でも他人なんてみんな宇宙人みたいなものか、とも思いながら。

 

エイリアンズ

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*1:わたしの恋人。こう呼ぶことにしました。

*2:186センチ

夕暮れバスの老女に羨望し、雑踏の中の少女にエールを送る

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時は夕暮れ。

 

タカシマヤの食品売り場の紙袋を大事そうに抱えた老女がバスのステップをゆっくりと上がってくる。「どうもね」と言いながらパスケースを運転手にかざし、運転手の「あゃゃっす」という礼を軽くいなしながら席を探し、ゆっくりと優先席に腰をおろして噛みしめるように目を閉じる。

 

「わたしはあなたになりたい。」

 

そう言ってその老女に歩み寄りたかった。明日のことなどどうでもよくて、ただデパ地下の惣菜を買って多幸感に満ちたオレンジ色のバスの中で穏やかに目を閉じられるその老女に、ゆくゆくは自分がなれたらと強く思った。たぶんその席は、とても少ない。ふるいにかけられて最後に何粒か残ったグラニュー糖である。

 

我々ヒューマンは非凡に憧れる青臭い日々を経て、年をとるごとに都合よく平凡な幸せを求めるようになる。そして幼いころに退屈だと思っていた種類の幸せが、実はとても実現困難なものであることに気づかされる。わたしも小さい頃は名探偵になりたかったし、今でも時々景気の良いときはあり得ない妄想をして楽しんだりすることがある。それにも関わらずこの老女への激しい羨望。まぶたを閉じて開くまでの間におそらくわたしはものすごい勢いで老いることだと思うが、まぶたを開けたときにその老女になっていたらどんなにいいだろう。

 

駅前には発狂している人がたくさんいる。目の前にどんぶりを置いて一日中うつむいて暮らす人もいる。まぶたを開けたときに彼らになっていない保障はどこにもいない。狂人を見て怖いと思うのは、自分の中にもそうなりうる部分があるからだ。貧しい人を見たときに何とも言えない気持ちになるのも、自分とて貧しさと隣り合わせだからだ。わたしは一瞬で過ぎ去る人生の中で、どういう風に年を重ねていくのか全く想像がつかない。この宙ぶらりんの不安がたまに押し寄せてきて、そういうときは妄想を楽しむことなどできず、ただ夕暮れバスの老女に羨望を向けるのみである。

 

わたしが一瞬で過ぎ去るかもしれない残りの人生に思いを馳せている一方で、駅の雑踏の中で小さな少女はとても長い時間を生きている。

 

お母さんはその少女の弟のクリームパンみたいな手を大事そうに引く一方で、後ろでとろとろ歩く少女にはきつい声を飛ばす。目は三白眼になり、鷲のような手で髪をひっぱって少女を引きずるようにして近くに来させる。弟が甘い声でジュースをねだる。少女の太いゴムで雑に束ねられた髪が元気なく揺れる。

 

彼女がわたしの年まで生きるその長さを思うと、本当に気が遠くなる。お母さんだってそのときたまたまそんな感じだっただけかもしれないが、それにしてもあの少女はすでに疲れていた。祝福された子供でないという思い込みのなかで、目くるめく濃厚な日々を乗り越えて、大人の年齢まで生きるというのはあまりに大変なことだ。

 

小学校の六年間なんて、永遠に感じた。ちょっとしたことで死の危険を感じたし、いろんな人から違うことを言われて頭がおかしくなりそうだった。幼稚園のときにわけもわからず万引きしてしまった記憶から、いつ親に警察に連れていかれるかビクビクしていた。小学校で物を盗む子がひどくいじめられているのを見て、胸がつぶれそうになった。視野が狭い分、感情も感覚も濃かった。雲はやたらゆっくりと流れたし、鉄棒は血の味がした。閉鎖的な田舎の中学校で、薄暗い廊下の蛇口から一定のリズムで水滴が落ちるのを見ながら、「わたしは一生ここにいるんじゃないだろうか」という身体を焼くような焦りを感じた。どうしても学校から途中で帰りたくなって、友達と一緒にトイレの窓から脱出を図った。窓の桟に登ったところで厳しい先生が外を歩いているのを見つけ、慌ててトイレの内側に転落し、トイレットペーパーをカラカラする金具で太ももとお尻の間を深めに切った。血が流れ、友達は爆笑しながらやはりトイレットペーパーで止血をした。わたしたちのプリズンブレイクはそれきりだったが、今でも尻のあたりを触ると傷跡が盛り上がっているのがわかる。触ると懐かしくて泣きたいような笑いたいような気分になる。

 

子供の頃は長くて重い時間の流れのなかで、いつも逃げたくてしょうがなかった。だから、疲れた様子の少女がいるとつい肩入れしてしまうというか、エゴイスティックな同情をしてしまう。卒論でニーチェについて少し調べたんだけど、ニーチェはあれほど「同情」というものを嫌いながら、広場で鞭打たれる馬の首に縋りついて号泣し、そのまま発狂してしまったらしい。わたしは雑踏の中の疲れた少女に縋り付いて泣き叫ばないように気を付けなくてはならない。

 

生きづらさなどをアピールする人々は「頑張っているのに頑張れとか言うな」と言うけれど、わたしはあの疲れた感じの少女に視線でエールを送り心の中で「頑張れ」と言うしかない。まさかあんな小さい子に「人生はつらいから頑張らずにドロップアウトしろ」とは言えない。「わたしもだめだめで、老女に都合よく羨望するなどしているけど、時間の重圧に負けずに生きていきましょう。」と脳内に語り掛ける。

 

さあ、ハチマキしめていきましょう。どんなクソババアになれるか楽しみなもんです。

 

 

 

地に足つけて生きている人間の言葉にはドライヴ感がある

地に足つけて生きている人間の言葉には、ドライヴ感がある。

一見それは意味不明の言葉であっても、たしかな重量をもったカウンターパンチとして身体に響いてくる。

 

小さい頃は、よく喫茶店に預けられていた。祖父が自宅の一部を改造してやっていた喫茶店である。国語と美術の教師を長くつとめた祖父が、自分が好きな音楽をかけ、好きな詩集や雑貨を置き、のんびり時間をつぶすために作った店だった。なぜか店中にこけしを飾っていた。生真面目な祖父は、コーヒー豆屋から教わった方法を杓子定規に守って、抽出時間も一分一秒違わないように、サイフォンに一滴も水気がないようにふき取ってから、親の仇のように一杯のコーヒーを淹れていた。それ故、大して品質の良い豆を使っているわけではなかっただろうに、そこそこ美味いコーヒーだったらしい。

 

しかしわたしはコーヒーなんて飲まず、バナナパフェを作ってもらって、店の隅っこで宿題をやっていた。

 

すると、祖父のお仲間たちが続々とやってくる。地元の詩人、ジャズシンガー、画家、「あえて」こんなド田舎に住んでいるような人たち。たまに宗教家。「何か」を「あえて」田舎で発信しているような人たち。

 

彼らは何かハイコンテクストな話題でつながり、了見でつながり、目くばせしあっている。この空間で共にいることで、何か高みに上っているかのような、要は何らかのカルチャーを解しているという優越の意識があった。

 

「マスターのお孫さん」ことわたしにも、彼らは話しかけてくれるが、いまいち何を言っているのかわからない。わたしは坂本龍一と言えば「戦場のメリークリスマス」しか知らなかった。小さいながらに疎外感にたまらなくなり、宿題をもって母屋に引っ込む。

 

そこでは、肥った短髪の女が、干し柿をネチネチと食べながらワイドショーを見ている。祖母である。ハサミなど危険なものが散乱している紺色のソファーの上に電気毛布を敷いて、テレビに向かって悪態をついている。

 

わたしに気が付くと、「まんず座れ」と言う。

そして干し柿を口元に押しつけ、「ケ(食え)」と言う。

干し柿が嫌いなわたしは、食べないと祖母がキレるということをすでに知っているので、嫌々口に含み、あまり噛まずに飲み込む。干し柿はしばらく食道に張り付いているようで、胸が微妙に苦しくなる。この干し柿はおそらく、祖母が勤め先の産直センターでもらってきたものだ。あかぎれのあるガサガサした手の、年のいった女たちがたくさん働いている場所だ。祖母は産直センターで人気者で、こういうもらい物は優先的にまわってくる。

 

祖母は冷凍庫焼けしたアイスや、瓶に入ったおかき、絶望的な濃さの緑茶を矢継ぎばやに出してくる。そして、口角泡を飛ばしながらわたしに話しかける。

 

「昔は川さ行って野菜だのなんだの洗ったのス。したっけ人参流れて来たおん、おらも食えるど!ってケばうまくねぐてよ」

「かっちゃんベビースターにやられたのス」

「だぁれあったな裸みてな恰好であるってらのがいぐねのス」

「おめはんもよぐね童だごと」

 

上から順に、「祖母が人参を嫌いになった理由」、「祖母の母、つまりわたしの曽おばあちゃんが、足のあかぎれベビースターが挟まって悶絶した話」、「薄着して出歩く若者が風邪をひく話」、「わたしが性格の悪い子供である話」を示す。祖母はだいたいこんな感じの話をよくしていた気がする。

 

その生臭い生命力のある祖母の世間話は、祖父のお仲間たちの言葉よりもずっとリアリティがあった。川に流される人参をガリリとかじってまずさに顔をしかめる幼き日の祖母が、あかぎれベビースターが挟まって悶絶して周囲にキレ散らかす曽おばあちゃんの姿が、なにより「よぐね童っこ」というわたしにおあつらえ向きの形容詞が、生々しい実体をもってわたしの身体をガンガン殴ってくる感じがした。それは、しばしばナルシスティックな空想に浸りがちな子供心を、現実に連れ戻すには充分だった。ホグワーツに入れないわたしは、ニンバス2000から振り落とされて、もち米がよく育つド田舎のこの大地にビターンと叩きつけられたのだった。

 

なぜ祖父が祖母と結婚したのかずっと疑問だった。祖父がやる喫茶店にも「光熱費のムダ」と文句ばかり言い、ワイドショーを見ては政治家や芸能人に文句を言うのが趣味の祖母に、いつも祖父はあきれたような顔をしていた。でも今ならなんとなくわかる気がする。詩や小説が好きで、音楽にも一家言あるような人間は、しばしばナルシスティックな空想に捉われ、現実を生きられなくなりがちである。すぐに彼らは「彼方」を用意してそこに逃げようとする。自分を「特別」だと思おうとする。すると現実のなかで理想だけが空転するようになってしまう。祖父もまた、祖母によって、祖母の言葉によって地面に叩き落とされることを望んでいたのではないだろうか。

 

わたしが祖父のお仲間たちをいけ好かなく感じたのは、幼いながらに自分と似た成分を感知したからかもしれない。それと似たようなことが大学に入ってからもあった。先輩が何人かで文芸誌をつくったから、その刊行イベントをブックカフェでやるというので誘われて行ってみたことがある。ブックカフェという場所にも興味があった。しかしまあ行ってみると、ソフトな地獄だった。刊行するまでの内輪での苦労話、今「文芸誌」という古風な媒体を選んだのがいいよね~みたいな話。こんな排他的な空間を作る人たちに、「あたらしい言葉」とやらが降りてくるだろうかと疑問に思った。何か集団で空想に捉われているんじゃないだろうかと気持ち悪くなり、早々にブックカフェを出ると、似たように同じゼミの男の子が出てきて、お互い絶妙な距離を保ちながらはや歩きで帰った。

 

昔、わたしは本当に嫌な子供だったと思う。勉強も得意で、言葉もよく知っていた。講釈も垂れた。父に「高飛車だぞ」と怒鳴られ、床に顔を押しつけられたことがあった。今でも高飛車である。地面にしっかりと足をつけて現実を生きる強さをあまり持たないくせに、すぐに空想のなかで高みに上り、批判精神ばかりが肥大していく。知ったかぶりをして、優越の意識を持つ。祖父のお仲間たちや大学の先輩たちへのいら立ちは、彼らを鏡にして自分を覗き込んでいたということである。彼らが実際のところどうだったか、本当はよくわからないのだ。そういう風に見えていたという時点で、まあ、わたし自身がそういう風だったということだろう。

 

わたしには、地面に叩き落としてくれる祖母の言葉のようなものが必要である。「お前は特別でもなんでもない」「這いつくばって生きろ」と教えてくれるような、そして日常こそが最もおもしろいのだと示してくれるような言葉が。それは、カルチャー界隈の人たちが集まる店にも、内輪で創って趣味の良い本屋でだけ売られるような文芸誌のなかにも、きっと無いだろう。だんだんにそういう言葉を自分で発せるようにならないといけないと思うけど、まずはどんどん摂取しないといけない。逐一自分を叩き落とさなくてはいけない。

 

そういうわけで最近聴いているのはGEISHA GIRLSのKick & Loudである。

 

Kick & Loud

Kick & Loud

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これはダウンタウンの地元、尼崎の言葉でつくられたラップである。貧しかった労働者たちの象徴のようなこの言葉が意味不明ながらもドライヴ感を持って迫ってくる。祖母のにらみつけるような眼差しと、唾を飛ばしながら語り掛けてきたあの勢いのある言葉たち、そんなものを思い出せるのである。するとだんだんこちらの身体もドライヴしてくる。空想に占領されていた身体が、スッと戻ってくるようなそんな感じである。

 

森岡のオッサン

メチャ臭い屁こいて朝から寝てまんねん

めばちこ さぶいぼ マロニー煮すぎて とけてもた

「Kick & Loud」作詞:Ken/Sho 作曲:Towa Tei 

https://petitlyrics.com/lyrics/17470

 

わたしはこれの東北弁を聞いてきたのである。

おまえが盆栽を買った日

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京都旅行に行ったときの「苔」

昨日、彼氏がちいさなちいさな盆栽を買った。

てのひらに乗るくらいの丸い器に土が入っていて、その表面を苔がぽこぽこと覆っている。そこから、小さくて華奢な松が見事な昇り龍を描いて突き出している。よく見ると、小指の爪くらいの大きさの松ぼっくりがふたつみっつ実っていて、葉っぱには艶がある。

 

めまいのするほど愛くるしい盆栽だった。

 

先に見つけたわたしは立ち尽くして盆栽を眺めていた。

続いて気づいた彼氏が、雷に打たれたように動かなくなった。「ぽつねん」という感じに立ち尽くしていた。

そこから五分くらい黙って盆栽を見つめ、切羽詰まった声で「買っちゃうかも……」と言い、またしばらく見つめ、「買っちゃう?……かも……」と言った。そこから何回か「買いなさいよ」とわたしが説得して、「やむを得ない……」みたいな顔をしてレジに持って行った。

 

わたしはというと、連れがいい買い物をしたことが心から嬉しく、その場でサンバなど踊りたい気分だった。余計なお世話かもしれないけど、友達の少ない彼に、あたらしい友達ができたような気もした。そのちいさな盆栽は、ちいさくて華奢なくせにうねり具合が獰猛で、生命力がみなぎっていて、それでいて話のわかりそうな繊細さもあった。

 

人間と人間の間のコミュニケーションも、相手の思ったことをそのままわかることができるわけでもないし、常に気持ちが一方通行になるばかりなので、それだったらモノと友情を築いたっていいんじゃないかという変な考えを持ってしまうことがある。彼の買った盆栽は、素晴らしくその期待に応えてくれそうに見えた。

 

変な考えだとはわかっていても、どうしても言ってみたくなって「ひょっとしたらモノとも友情築けるんじゃない?」と彼に聞いてみた。するとしばらく黙り「きっと無理だが愛情ならいくらでも注げるんじゃないかな」といいことを言うので、その日はいつもの三倍くらいかっこよく見えた。そういえばスタイルも良かった。

 

明日は花と一輪挿しを買いに行こうと思う。

飼い猫への愛をタトゥーにしかねない女

健斗♡彩花 Forever love……

 

そう書いたピンクの絵馬を、江の島の小高い丘につるすだけならまだしも、若気の至りでタトゥーをいれてしまうひとがいる。Yusuke Forever…… そう彫ったあと、ほどなくして別れ、失笑を買ってしまうひともいる。

 

そういうことをする気持ちが長らくわからなかったのだけど、最近「ちょっとわかるかもな」と思ってしまうようになった。

 

感情は水のようにカタチを変え、身体は砂の城のように朽ちていく。終りのないランニングマシーンを永遠に走り続けるように視界は移ろいゆき、何も確かなものがない。せめて、今感じているこの強い気持ちを、この、いずれ滅んでいく身体に刻み付けて、忘れないように、なくならないように。

 

その切実さ、美しさ。

 

大学で「刺青」をテーマに卒論を書こうとしている友達がいて、その話を聞くうちにこんなことを考えるようになった。

 

わたしにとって、永遠に身体に刻み付けたいものってなんだろう。部活の帰り道に友達とコーラを買って、のどを反らして空を見上げながら飲んだら信じられないほど長いゲップが出て、腹がちぎれるくらい笑ったあの夏?母が昔つくってくれた、嘘みたいに美味しいブッシュ・ド・ノエル?彼氏と尻をしばき合いながら走った薬局までの道?どれもかけがえないけれど、タトゥーにするにはあまりにきりがない。しかも限定的、断片的過ぎてタトゥーにしていいものか。もっと自分の根幹をなすような、強い気持ちはないだろうか。

 

こんなことを聞かれて困ってしまったことがある。「あなたが長い間続けていることは何ですか?」わたしには本当にそれが思いつかなかった。そしていよいよワケわからなくなり、「いやー、特にないですけど、猫はずっと好きですね」と答えてしまい、「(笑)」みたいな雰囲気になった。「わたし会話通じないやつだな」と自分でも思った。しかし、こんなにズレた答えはないが、真実ではあった。

 

わたしにとってはYusuke ForeverがCat Foreverだったのである。

 

実家にはマー君というアメリカンショートヘアがいる。ほんとうは八万八千円なのに、母が父に「八万円だった」と微妙なうそをついて買った猫である。

 

こいつがダサい猫で、食べ物とみれば恥ずかしげもなく飛びつき、盗っ人の様相となる。小さな毛玉のようなときから、魚の切り身を口からはみ出させながら逃走し、家の中はコント仕立てとなった。なぜかときどき人間のようなオナラもするし、枕に頭をのせて寝る。もちろん太っていて、真っ白でふわふわなおなかは床にくっつきそうである。小鳥を怖がって窓の中から威嚇するような小心者で、犬にはすっかり屈服して自分の飲み物を奪われても反撃しない。

 

でも気持ちのやさしいところがあって、家の中で弱っている人間がいると、そっとそばにいって添い寝をする。人間はマー君に枕を奪われて、襟元をよだれでびちょびちょにされるのだけど、「こいつめ笑」と思っているうちに元気になってしまう。子供の頃、親と喧嘩して自分の部屋で泣いていると、ドッドッと人間と同じくらい大きな足音が近づいてきて、ドアの隙間からマー君が入ってきて寝床に滑り込んでくる。そのときの丸くてオレンジの気持ち。その気持ちはつぎ足されすぎて元がよくわからなくなっている秘伝のタレみたいな感じでわたしをつくっている。

 

自分なんて断片的なもののあつまりで、他者のパッチワークだと言ってのけることもできるけど、何か一貫したものがあっても良くて、それがそのときの丸いオレンジの気持ち、というかマー君への愛、マー君からの愛である。

 

そんなマー君が次で12歳になるらしくて、かなりショックを受けてしまった。「おまえ、死ぬなよ」と思う。マー君が死んだら、わたしちょっとタトゥー彫っちゃいそう。大好きな焼き魚とチキンと一緒に彫ってやろう。

たとえば冬至にかぼちゃだって煮てやるよ

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東京オリンピックを一緒に見ようね。約束だよ。」

 

誰かに言われたのだけど、その誰かはもうわたしと親しく会うことはないだろう。

 

もっといえば、こうも言っていた。

 

「ここが子供たちの部屋で、ここは(ぼくら)夫婦の部屋だよ。下の階からの音が聞こえやすくなっていて、子供に何かあったらすぐわかるんだ。」

 

何やら建築の図面を見せながら言っていた。建築学部の人だったから。

 

たぶんわたしはそれをニコニコしながら聞いていたことと思う。もにもにした変な声で「そうだねぇ」などと相槌を打っていたことと思う。

 

それからあまり月日もたたずに、その誰かは泣きながらわたしの部屋を飛び出していったわけである。「さよなら」って泣きながらドアバーン開けて、夜道に忍びの者のように消えていった。今思うと、別れ際としてなかなかバブリードラマティックである。

 

その誰かのことはもうあまりよく思い出せなくなりつつあるが、果たされなかった約束を思うとうすらさみしい気持ちになる。人生、何度果たされぬ約束を交わすのだろうかと思うと、ちょっと浦島太郎がうらやましくなる。目を閉じて開けるまでの間に、すべて過ぎ去っていて、遠くなっている。「果たされぬ約束も、その相手も、何だったっけ。まあいいや。」ってなると思う。

 

marple-hana1026.hatenablog.com

 

ところで、いまわたしには恋人がいるが、悩んでしまうのは未来の話をどれくらいしてもいいのかということである。いつか隣からいなくなるだろうと思いながらつき合うことほどつまらぬこともないが、「Eternal love………♡」みたいなノリでいくのもうっとうしいだろう。「おじいちゃん、おばあちゃんになってもズット仲良しだょ」などとのたまって、昆布のようにおとなしくて優しいあの青年を困らせてはならない。

 

付き合いたての頃、うっかり酔っぱらって電話をかけて「老後の話」をしてしまったことがある。よりにもよってとんでもなく未来の話である。地元に帰って、高校の同級生たちと飲んで開放的な気分になり、駅のホームで23:20発のおそろしく早い終電(岩手県のみなさんはわかりますね?)を待ちながら声がどうしても聞きたくなってヘロヘロにへたりこみながら電話をかけた。

 

「○○くんさあ、老後はさ、ノーパンで山に分け入ってキノコ狩りでもしようよ。きっとそんな時代になる。絶対にそうして生きられる。ハハッ、本気本気。聞いてる?」

 

いうまでもなく、べろべろに酔っぱらっていた。酔ったときは、内に秘めていることが出るというが、わたしの腹の底は「彼氏と老後にノーパンでキノコ狩りをしたい」という色濃い欲望によって彩られていたらしい。ノーパン、しかもキノコ。わたしは普段かなりおすましして生きているが、腹の底はこんなもんである。煩悩まみれである。

 

こんなことがあっても、あの堅物で真面目な彼がつき合ってくれているのが不思議である。それどころか、誕生日にくれた手紙に「あのときの電話、とてもうれしかったよ」と書かれていて、「なんで?????」と思いながら感動してちょっと泣いてしまった。

 

でも、おそらくあの夜電話で交わした約束は、果たされることはないだろう。 老後のことなんて誰にもわからない上に、ノーパンキノコ狩りである。叶ってしまったほうが変な話である。

 

そんな途方もない約束を交わすのはもうやめにして、最近は微妙に近い未来の約束をするのがいいなあと思っている。「結婚」「出産」「老後」みたいな大それたライフステージの話ではなくて、「今この節約生活が終わったら、駅前で寿司買って、スパークリング日本酒と一緒に飲んでやろうね」とか。「もし次にどこかの駅で降りて、そこにミスドがあったとしたら、お土産に買ってきてね」とか。「今度全然興味のない一番くじを引いてやろうぜ」とか。これだったら別に果たされなくても、なんか大丈夫。

 

最近いちばん自分で気に入った約束は、「冬至にかぼちゃ煮てやるよ」である。すごく微妙である。日本にたくさんのカップルはあれど、冬至の約束をする人は少ないだろう。冬至は12月22日、その日にかぼちゃを食べると風邪をひかないと言われている。嘘くさい話である。そんな嘘くさい話が長年にわたってありがたがられているのは、わたしみたいに「冬至にかぼちゃたべましょうね」と言うこと自体を愉しんできた女たちがいるからだろう。彼も彼で「ぼくはかぼちゃが結構好き。」という何やら間の抜けた返事をした。

 

わたしはいざ冬至になっても、かぼちゃを煮ないかもしれない。でもそれでもいい。果たされない約束だったとしても、彼がかぼちゃを食べられなくて、もしかするとちょっと風邪をひくだけのことである。

 

変なおにいさんとニセの札束

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落ち葉が舞う季節になると思い出してしまう人がいる。

深く関わったわけでもない、ほとんど人生が交わらなかった人なのだけど、どうしても忘れられない瞬間があるのである。

 

わたしは小学校低学年だった。

 

田舎の、周りが雑木林になっている小学校。裏には墓地があった。そこに毎日20分くらいまっすぐな道をてけてけと歩いて通っていた。道にはときどきおかゆのようなものが点々と落ちていて、そのときのわたしは知らなかったのだがそれは酔っぱらった大人の吐いたゲロなのだった。そしてゲロの先にはポツリと養老乃瀧が建っていて、そこに来ると「やっと通学路もあと半分だ」と思うのだった。

 

おかゆをよけて歩くわたしの横を青い影がかすめる。

 

それは自転車に乗った、上下青ジャージのおにいさんだった。背中に竹ぼうきをかついで、酔っぱらっているのかと思うくらいヘロヘロに自転車をこいでいた。それは毎朝のことで、わたしはたまにおにいさんの自転車にひかれそうになった。それにもかまわず、おにいさんは「フフフ~ン♪」みたいに鼻歌をうたいながらヘロヘロと自転車をこいでゆくのだった。

 

そのおにいさんは、皆から「変なおにいさん」と呼ばれていた。

 

校舎につくと、そのおにいさんは一心不乱に落ち葉を掃いていた。落ち葉がない、ただの砂のとこまで全力で掃くもんだから、そのへんの子供たちに砂がザッザッとかかって、逃げられていた。赤らんだ顔、無造作に伸びた髪、青いジャージからむき出しのくるぶし、やせぎすの身体、身体と同じくらい大きい竹ぼうき。ときどき聞き取れないなにかを一人で喋りながらおにいさんはただせつせつと落ち葉を掃いていた。それは本当に毎朝のことだった。

 

おにいさんは知的障害があるようだったけど、まだ小さいわたしたちにはそれがあまりよくわからなかった。大人の体をしているのに奇妙な振る舞いをするそのおにいさんのことが素直に不思議で、みんな無邪気に「変なおにいさん」と呼んだのだった。落ち葉を掃く痩せたうしろ姿に、高学年の子たちがからかいの言葉をかけているのを何度か見た。

 

おにいさんは小学校の卒業生で、毎朝落ち葉を掃きに来るのを楽しみにしていて、学校側もそれを黙認しているようだった。変なおにいさんは、わたしの小学校生活の一部だった。

 

あるとき、わたしはなぜか体育館のそばの暗い廊下にいた。体育館では、自治会の催しかなにかが行われていて、それを見るのが退屈で抜け出していたのだと思う。廊下で掲示物を読んだり、しゃがんだり、壁にあたまをコツコツとぶつけたりして、時間をやり過ごしていると、ワックスがけされた床にひょろひょろとした人影がうつって、顔を上げると例の変なおにいさんがいた。

 

逆光に包まれて、何か聞き取れないことをしゃべりながらおにいさんはにじり寄ってきた。ズリ、ズリと竹ぼうきを引きずりながらこちらに来るおにいさんの顔は目がとても細くて、笑ってるんだか怒り狂ってるんだかわからなかった。いつも目にしている落ち葉を掃いている姿、ヘロヘロと自転車をこぐ姿とは違う、「おにいさんそのもの」が強烈に迫ってくるのだった。日常の一部でもなんでもなかった。

 

わたしはなぜか心臓はグンとつかまれたような恐怖を感じて、息ができなかった。

 

恐怖に震えるわたしに、おにいさんはズイッと手のひらを差し出した。

 

そこには札束が載っていた。

 

「欲しいか?欲しいか?」

 

わたしはヒッと息を飲んで後ずさりした。怖くて頭がおかしくなりそうだった。

 

するとおにいさんが、札束の真ん中をぴっぴっと指さした。

そこには赤い字で「玩具」と書かれていた。

 

しばらくきょとんとして眺めた。おにいさんはちょっとしたイタズラというかたちで、不器用なコミュニケーションをはかろうとしただけだったのだとやっとわかった。

 

するとなんだか一気に安心して、身体中をあたたかい血がめぐりだすようで、そうなると今度ははじけるように大笑いしてしまうのだった。「なんだぁ、おもちゃじゃん!!」と言うと、またその言葉で笑えてきて、おなかの痙攣がとまらなくて笑い声がもっと大きくなってしまう。

 

おにいさんも、心底うれしそうだった。ケラケラと笑うわたしに、ずっと一つ覚えみたいに「欲しいか?欲しいか?」と聞きつづけて笑った。糸みたいに細い目がもっと細くなって、顔は赤みを増していた。

 

笑い声がこだました。

 

それからもおにいさんは毎日落ち葉を掃いていた。あのときの札束のことは、なかったかのように毎日せつせつと掃いていた。わたしもとくに交流をはかろうともせず、ただほうきをしょった自転車のうしろ姿を眺めたり、横を通って砂をかけられたりした。

 

ある朝、おにいさんがいなかった。全校集会が開かれた。

 

「皆さんもよく知っている、毎朝お掃除に来てくれていた○○くんが亡くなりました。黙祷しましょう。」

 

校長先生はそう告げた。

 

おにいさんは、勤め先の工場で機械に挟み込まれて死んでしまった。即死だったらしい。

 

おにいさんが死んだという事実の告げられ方も、とってつけたような黙祷も、あまりにあっけなかった。わたしも何も考えずに黙祷し、「死んだんだ…」と思った。不思議と悲しくなかった。

 

その後も、毎日変わらず養老乃瀧のまえを通り、校庭を抜け、固い木の椅子にじっと座って授業を聞くだけの毎日が淡々と流れていった。周りのみんなは毎日掃除に来ていた変なおにいさんのことを少しも話題にしなかったし、わたしもとくに何も思い出すこともなく過ごした。

 

あるとき、校庭でつむじ風に落ち葉が舞っているのをじっと見ていた。そのとき、それは来た。おなかのあたりに、ズンと暗いものが落ちてきた。「思い出した」という感じで、暗いものが落ちてきた。

 

おにいさんはもういない。

 

ただその事実だけがそこにあって、もうそれ以外はなにもないのだった。あのときニセの札束を見せてくれて二人で笑ったことも、今となってはわたしが覚えているだけで、わたしが忘れてしまえば全部なくなってしまう。おにいさんがいたことすらみんな忘れはじめているし、いた痕跡だってもうほとんどない。ただ落ち葉がそこには舞っているだけで、そのことがどうしようもなく悲しかった。

 

その悲しさは、「おにいさんが死んだ」ということだけに向けられたものではなかったかもしれない。これからいろいろな人とすれ違っていくけど、その誰もが「さよなら」を言えないままいなくなってしまうであろうということ。死んでしまうと、ぽっかり穴みたいなものが空いて、時間がたつとその穴すらなくなってしまうということ。もっと途方もないこと。

 

だとすればあの瞬間は本当にかけがえなかった。

 

なんだか一枚の写真のようなイメージが見える。ニセの札束を持ったおにいさんと、座り込んで大笑いするわたしが真上からとらえられている。それはくすんだ色で、時間がたつとだんだん薄く見えづらくなっていく。

 

いつまでこのことを覚えていられるだろうか。あのおにいさんがいなくなった穴がなくなるのは、わたしの記憶がなくなったときかもしれない。

 

そんなことを考えながらお風呂に入っていたら、間違ってシャンプーを二回もしてしまった。「シャンプーもったいないな」と思ったわたしには、自由に使えるお札がもういくばくもない。

 

 

 

 

 

 

 

 

あの頃、公文式で苦悶していた

 

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はい。

 

この鞄を見て、一瞬にして時をかけた人も多いのではないでしょうか。「くもん行っくもん♪」でおなじみのくもん学習指導教室のバッグですね。

 

ついこの間、この黄色とネイビーの鞄を持った子供たちが脇を駆け抜けていったとき、まさしくわたしも時をかけました。過去の風が吹いた、と感じました。わたしもまた、かつてはくもんキッズだったのです。

 

齢5歳にして「幼稚園行くのめんどいな」という感覚をもっていたわたしは、割りばしを削る、たんぽぽの茎を割いて水に沈めてクルクルにする、などの地味な作業に明け暮れるだけの空虚な生活をおくる残念なキッズでした。

 

そんなわたしに「○○ちゃん、おべんきょうとかしてみる?」と母が問いかけてきたのがはじまりでした。まるで何のことだかわかりませんでしたが、「おべんきょう」とやらで空虚な日々を埋めることができるのならそう損な話ではないと思い、「よかろう」と答えるとすぐさま母も「承知」とのことで、入塾の手筈がスピーディーに整いました。

 

連れていかれたのは、家のそばのくもん教室ではなく、なぜか車で10分くらい離れた祖母の家の近所にあるくもん教室でした。なるほど、そもそもわたしをくもん教室に通わせるというのは祖母の目論見だったのだなと気が付いたのはしばらく後のことです。よくよく考えれば母はわたしの勉強についてとくに興味がなさそうでした。一方の祖母はまだ幼子のわたしに『雨ニモ負ケズ』を百回書き取りさせるなど、教養スパルタ婆さんとしての才覚を発揮しており、なるほど「幼いうちからくもん式に通わせて賢い子にしよう」という計画を考えそうなわけです。

 

そういうわけでわたしは、まるで幼くて何もわかっていなかった5歳から、心身ともに発育し現在22歳のわたしと大体同じ位の背丈になった小学6年生になるまで、くもん漬けの日々を送ることとなったのです。

 

わたしは数学と国語を選択しました。

 

主に力を入れたのは数学のほうでした。いや、最初はさんすうだったのですが。

 

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5歳の時分は、この大きな7を一生懸命にえんぴつのよれよれの線でなぞっているだけで大いに褒められました。1,2,3,4,5と順番になぞっていって、表ができたらシートをペリッと他のシートから切り離して裏面にいきます。このペリッが子供心に楽しく、どんどん鉛筆は進み、わたしはくもん教室のエリート街道を走り始めたというわけです。

 

わたしはつぎつぎに「進級」し、シートに書かれている文字はどんどん小さくなり、やがて×だの÷だの√だの≧だのが登場するようになり、いよいよめまいを覚えながらシートに向かうようになりました。持ち前の真面目さで「やらなきゃやらなきゃ」と歯をくいしばりながらがんばるうちに、自然とそうなっていったのです。そう、小学生にして高校数学を解くようになったのです。その教室に張り出されている進度ランキングを見ると、わたしの名前、ひどく凡庸な名前が書かれた平たいマグネットが一番上に申し訳なさそうにベタッと貼ってありました。はじめの頃は「負けないぞ~!」などと話しかけてくれた男の子にも、すっかり距離を置かれるようになってしまいました。

 

小学校でももちろん「算数ができる人」として認知されました。クラスの催しで「バースデーカード」を全員からもらったときに、そのほとんどに「計算がはやいね」とか「計算がせいかくだね」などと書かれていて、CASIOが誕生日を迎えたらこんなかんじかしらんと洒落たことを考えながらも切ない気持ちになっていました。あのとき、「○○ちゃんはお話がとっても面白くてたのしいよ」と書いてくれたたった3人くらいの子たちの幸せをわたしは今でも祈り続けております。

 

ところで、わたしはそのとき県内で進度が2位とのことでした。これに教室の先生は大いに喜び、「頑張ろうね、期待してる」と声をかけてくれました。わたしは「いよいよ参ったな」と思いました。なぜなら、そろそろ数学教材がわたしの理解の範疇を超えそうになっていたからです。毎日毎日何時間も放物線を書き、少し休んでは鉛筆で真っ黒になった手を呆然と眺めました。

 

先生に質問に行くと「自分で考えてみて」と返され、そう言われるとわたしはもう教室の隅っこで頭の上におっきな「?」マークを浮かべながら座り続けるしかありませんでした。気が付けば、教室に来てから6時間も座っていました。どうしてこんなにわからないんだろう、わたしは何をやっているんだろう、と自問自答を繰り返し涙をこらえながらじっと座っている。それが小学生の頃のわたしでした。

 

「さすがにもう帰っていいよ、またね」と言われ、引き戸をガラガラと開けて外に出ると夜風がすうっと冷たくて、鼻の奥がツンとするけど、これから向かう祖母の家の冷凍庫にあるパリパリチョコサンデーアイスのことを考えると涙は引っ込んで、バタバタと帰路を駆けたのでした。

 

そう、だましだまし頑張っていたけどわたしはもうすでに限界に向かっていました。そして、理解度が限界に到達すると同時に「中学校進学」といういい節目を手に入れ、先生に引き留められながらもスッパリとやめてやったのです。思い出がないわけではないですが、あのときほど「自由を手にした…!」と感じたことはありません。

 

くもんのことを思い出すと、ひとつ忘れられない光景があります。

 

書いていませんでしたが、わたしの2つ上の兄も一緒にくもん教室に通っていた時期がありました。兄もわたしと同じように、くもんに通うことに大きなストレスを感じていたようでした。そのため、兄はくもん絡みとなるとときどきトリッキーな行動をするようになっていました。教室内にカナヘビ(小さなトカゲのような生きもの)を持ち込んで、解き放ち、教室に悲鳴をもたらしたこともありました。 よく会社員の方などが「会社に隕石落ちねえかな」などと言いますが、まさにその発想でささやかながら実際に行動に移してしまうような深刻な状況だったのです。

 

ある日、わたしと兄はかなり早めにくもん教室についてしまい、外で開くのを待っていました。教室のすぐそばには小川が流れていました。キラキラと光が反射した底浅のその小川を橋の上から見下ろしながら、わたしと兄はなんとなく憂鬱な気持ちを共有していました。

 

兄は橋の手すりにもたれかかり、鞄を持った手をぶらりと小川の真上に投げだしていました。

 

「落としちゃうかもよ」と言うと兄はあいまいに笑うだけでした。

 

すると次の瞬間、ネイビーと黄色の影がシャッと小川へと落ちていきました。兄の手を滑り落ちた鞄は、清らかな水の上をなんとも呑気に滑っていきました。

 

兄は「お、落としちゃった!」などと慌てるふりをしましたが、嘘であるのはバレバレで、その顔は今手に入れた自由をかみしめて輝いていました。

 

そのすぐあとに、兄はわたしより先にくもん教室をやめました。

 

キラキラと輝く小川を流れていった、あのくもんバッグ。わたしのなかでそれは、女神像にも代えがたい「自由の象徴」として心の奥に残りつづけているのです。