ニートにハーブティーは要らない

ニートじゃなくてすみません

相対性理論の『気になるあの子』って小松菜奈のことじゃないかしらん

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相対性理論 - 気になるあの娘

 

気になるあの子の頭の中は

ふつう ふつう わりとふつう          

 

 

わたしはどうも小松菜奈に特別さを求めてしまうね。

 

ミステリアスであってほしいし、色っぽくそれでいて生々しさはゼロであってほしいし、その辺の凡人をシュンとさせるくらいの美貌と存在感をもっていてほしい。あの爬虫類みたいな鋭い目で射貫いてほしい。

 

頭の中もどこか変であってほしい。ちょっとくらい倫理観が破たんしていてほしい。

 

好きな本や映画を聞いたら、真面目に答えないでほしい。めちゃくちゃ適当に答えておきながら、実は通であってほしい。

 

もし小松菜奈がクラスメイトだったら授業中は物憂げに窓の外を見ていてほしいし、勉強してないのにまあまあ高得点をとってほしい。そしてサッカー部の男子とは付き合わずに、陰で教育実習の先生をたらしこんでいてほしい。それでいて浮かれることなく余裕たっぷりであってほしい。一緒に登校しているとき、「なんか学校やんなっちゃった。海見に行こうよ」って言って、サボることに怖気づくわたしに「意気地なし」と冷たく言い放ってほしい。そして卒業式では一滴も涙を流さず、卒業文集の最後のページになにかシュールなことを書いてほしい。

 

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https://matome.naver.jp/odai/2139437238266182201/2145429710749024703

 

こんなふうに怒涛のごとく小松菜奈に願望を叩きつけてきたわけだけど、小松菜奈も「お、おう」って感じだと思う。わたしは小松菜奈に、かつて憧れた架空の「ミステリアスなあの子」の幻影を見ているだけであって、現実世界の小松菜奈自体に興味があるわけではないのかもしれない。

 

わたしは小松菜奈を「ミステリアスなあの子」として神格化して、自らに劣等感を抱くことをもはや楽しんでいるのだ。

 

現に今

 

bis(ビス) 2018年7月号

bis(ビス) 2018年7月号

 

 ちなみにこの雑誌、世界観を完璧に創り上げていてすごかった。わたしが憧れるミステリアスで小悪魔的な小松菜奈像がそこにあった。さては作った人たちも小松菜奈への憧れこじらせピープルなのかもしれない。

 

この「bis」の七月号に載ってるショートヘア小松菜奈があんまりスンバらしいもので、髪型を真似しようと美容院に行ってきたんだけど、なぜか楠田枝里子みたいになって帰ってきた。わたしは落胆しながらもどこか安心している。小松菜奈が安易に追いつけない存在であることに安心している。小松菜奈は遠くなくてはならない。

 

友達と集まって色々ぼやいているとき、ふと「ああ小松菜奈になりてえ~~」と言うと皆同意してくれた。「なりてぇ~~」の大合唱となった。そして小松菜奈になったら何をしたいかとか、小松菜奈の見た目になれるならどんなハンディを背負えるかという話にまで発展した。ある者は「背毛ボーボーでもいい」と言い、ある者は「等身だけでもいいから小松菜奈になりたい」という謎の譲歩をした。最終的にはある者が「生理隔週でもいい」と言い、「アンタ、そこまで…」と一同がドン引きしてその話は終着した。わたしたちは到底なれっこない小松菜奈の神秘をたたえ、傷をなめあうことにある種の楽しみを見出していたのだ。「なりてぇ~~」と言いつつも。

 

このわたしたちのキモく、ささやかな楽しみが末永く続くには、小松菜奈は決して「ふつう」であってはならないのである。気になるあの子の頭の中はどうか滅茶苦茶であってくれ!!

 

しかしその思いむなしく、油断すると小松菜奈は「ふつう」を曝け出してくる。

わたしが創り上げた「ミステリアスなあの子」像を破壊しにくる。

 

ある雑誌のインタビューで「好きな音楽:K‐POP全般ですかね笑」と答えていた。ショック!!(いや、K‐POPは全然いいんですけど、それまで抱いていた小松菜奈のイメージとかけ離れていたので。)

 

そして追い打ちをかけるようにG‐DRAGONと熱愛した。ダブルショック!!!

 

そして極めつけは、POPEYEの映画特集で、好きな映画を聞かれたときの返し。

 

 

POPEYE(ポパイ) 2015年 06 月号 [雑誌]

POPEYE(ポパイ) 2015年 06 月号 [雑誌]

 

 

小松菜奈クリント・イーストウッドの『アメリカン・スナイパー』を挙げた。そこまでは良い。問題はそのあとだ。

 

平和ボケから少し覚めて家族の強さを実感します。

 感動する映画が好きなのですが、「家族の話=泣く」っていうのが自分の中にあります。家族は私にとって一番大事な存在で、あったかい気持ちにさせてくれる作品が多いので。ですが『アメリカン・スナイパー』にはそのかけがえのないつながりが戦争によって傷つけられ、歪められることを突きつけられました。実話を元にしているから、私たちが知らないところで戦争が存在していることを実感して、特にイラクの子供がおもちゃ感覚でロケットランチャーを拾ってしまうシーンはヒヤヒヤでした

 

わたしの中の鈴木雅之が違う、そうじゃないと言っている。感想文かよ。ほかの人が「あえての」寅さんとか、グレムリンとか挙げてオシャレなこと言ってるというのに、この素朴な感想文。「家族の話=泣く」の破壊力。そして重要なシーンを「ヒヤヒヤ」で片づけるライト感。最近サバゲーにはまってる彼氏に連れてこられて、渋々『アメリカンスナイパー』観た量産型女子大生が帰りの喫茶店で適当に言う感想みたい。

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http://noaidea.me/%E5%B0%8F%E6%9D%BE%E8%8F%9C%E5%A5%88-%E7%94%BB%E5%83%8F%E9%9B%86.html

 

要は、めっちゃふつう。

気になるあの子の頭のなかは、ふつう、ふつう、かなりふつうだった。

 

こういうわけでわたしのなかの「ミステリアスなあの子」としての小松菜奈像はもう半分破壊されつつあるのだけど、やっぱり憧れは捨てきれない。雑誌の中に、虚構の世界の小松菜奈を見るとやはり胸は高鳴る。

 

わたしの楠田枝里子みたいな頭の中では、「気になるあの子」がループされている。

あの頃、「いい匂いの練り消しをもってる子」がイケてた

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子供の世界では、妙な条件がヒエラルキーを左右することがある。

 

わたしの頃の場合、いい匂いの練り消しをもってる子がイケていることになっていた。ここで言う練り消しは、男子が消しかすを集めてつくる鼻クソみたいなやつのことではない。上の画像のような、小さいプラスチックの箱に入った、カラフルで、フルーツやコーラのいい匂いがする練り消しのことである。

 

これが流行るまではみな一様に、ちゃおの付録のペンを使っていて、それを取りかえっこするのが社交だった。

 

そしてこの練り消しは完全にブームを塗りかえた。

 

皆がこのいい匂いのするぷにょぷにょした物体の虜になった。

 

ひとり、またひとりと練り消しユーザーが増えていった。

 

みんなこれを消しゴムとして使うのではなく、感触を楽しんだり、友達に匂いを披露したりするためだけに使っていた。そのときは練り消しの匂いの嗅がせあいが社交だった。

 

しかしちゃおペンのときのように、気軽に取りかえっこが行われることはなかった。格別に親しく思っている相手との信頼の証、もしくは気に入られたい相手への献上品としてひっそりとやり取りされていた。むぎゅっと練り消しを半分にちぎって、「はい、○○ちゃんにだけ」とささやくのだ。自らの手垢にまみれた練り消しを、誰かにあげるということは特別な意味をもっていたのである。

 

すると、人気の高い子のもとにはたくさんの練り消しが集まる。赤に黄色、オレンジ、ソーダ色、ピンク。色とりどりの練り消しは、ヒエラルキートップのあかしだった。その子は授業中、むっちゃむっちゃとたくさんの練り消しをもてあそび、マーブル模様にしていた。

 

トップがいればもちろん下もいる。せっかく勇気を出して、中心グループの子に話しかけて自分の練り消しをあげたのに「汚い」と言われて陰で捨てられている子がいた。その子は、自分のあげた練り消しもマーブル模様のなかに消えたのだと思っていたかもしれない。もちろんその子の手元には、半分にちぎられた自分の練り消ししか残っていない。

 

そしてトップもいれば下もいるし、ヒエラルキー外もいるのである。

練り消しを買いすらしなかった人々である。わたしがそうだった。

 

わたしはカドケシ派であった。カドケシを使っていると、「ああ、あのひとはカドケシの人だから」という暗黙の了解ができあがり、ナチュラルに練り消し社交から距離を置くことができた。一度「あっちの人」と思われるとあとは楽である。

 

わたしがカドケシ路線で、社交上のわずらわしさを避けているうちに練り消し文化は衰退した。授業中に練り消しを触る生徒たちに担任がキレて、教室への持ち込み禁止になったのである。

 

その後はカドケシが流行り、わたしは第一人者として一目置かれた時期もあった。しかしそれももう昔の栄光。

 

狭いコミュニティのなかでの価値基準なんて、無根拠でテキトーで移ろいやすいものである。これを小学校のときの練り消しブームから学んだ。

 

 

 

ヒノデワシ ねりけしくん フルーツ FSN-100-B 20個入

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スキャットマンの本領はジャズだと熱弁させて

スキャットマンの再評価が足りない

 

 

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Scatman Johnスキャットマン・ジョン、本名:ジョン・ポール・ラーキン(John Paul Larkin)、1942年3月13日 - 1999年12月3日)は、アメリカ合衆国カリフォルニア州エルモンテ出身のミュージシャン

52歳で歌手としてメジャーCDデビュー。
メジャーデビューアルバム『スキャットマンズ ワールド』は日本やヨーロッパ諸国など全世界で600万枚以上を売り上げ、各国のチャートでNo.1を飾る。自身の障害である吃音症を逆手に取った、模倣が困難なスキャットと、1回に4つ近く音の調子を変えるという珍しい歌唱法(このテクニックは古いヒンドゥー教の喉で歌う歌唱法から取り入れた)を用い、独特のジャンル『テクノスキャット』を開拓した。

1999年12月3日ロサンゼルスの自宅で肺癌のため死去。57歳没。 

 

日本ではビーバッパパラッポの人、およびプッチンプリンのおっさんとして知られているスキャットマン。吃音という大きなコンプレックスをあえて土俵に上げて、52歳で、テクノポップ、ラップの世界に飛び込んで一世を風靡した。

 

※タップすると再生されます

世界中で大ヒットした『Scatman (ski-ba-bop-ba-dop-bop)』

水曜日のダウンタウンで誰もカラオケで百点が取れないという結論に至った難曲。

 

日本でもプッチンプリンのCMに出演して人気者に。

最後の「イェーイ!!!!!」がまぶしいですね。

 

まあスキャットマンといえば大体こんなイメージでしょう。こうして見ると、活躍は華々しいんだけどどうしてもイロモノって感じがする。

 

このときはすでに初老。52歳でメジャーデビューして、スターダムに上り詰めて、57歳で肺がんによって亡くなったスキャットマン。たった五年間でこれだけのインパクトを残しただけでもすごいこと。

 

じゃあその歳まで何してたんだ?

 

答えは     場末のジャズマン   でした。

 

夜な夜なバーでピアノを弾き、こまごまとしたお金を得て暮らしていたようです。吃音という大きなコンプレックスを抱え、アルコールにおぼれてだましだまし生きる日々。ピアノを弾くのも、喋るのが怖い自分が唯一評価されることだったから。

 

ある日彼は、自らの吃音をジャズのスキャットという歌唱法に生かして、ピアノと共に披露し、拍手喝采を得ます。スキャットとは、「ダバダバ」とか「ドゥビドゥビ」とか「パヤパヤ」みたいな意味のない音をメロディーに合わせて即興的に歌うこと。「そんな無意味な言葉ならどもっても良いんじゃないか」と思いつき、想像以上に絶賛されたスキャットマンは、その日から自分の音楽に自信が持てるようになったとか。「スキャットすることで吃音から自由になれたんだ」と語っていたそう。

 

そのとき、スキャットマンスキャットマンになったともいえるのです。

 

つまり彼をスキャットマンにしたのはジャズであり、ジャズこそが彼のホームなのです。彼はその後、スキャットをしているカセットテープがきっかけとなり「テクノ、ラップで勝負してみないか?」と音楽レーベルに持ち掛けられ見事にスターになるのですが、彼の本領はやっぱりジャズ。

 

なんでこんなにスキャットマンジャズを推しに推すのかというと、今このアルバムの虜になっているから。

 

『Listen to the Scatman Import』

 Listen to the Scatman

 

https://www.amazon.co.jp/Listen-Scatman-John-Larkin/dp/B00005K8EB

 

これすげえから。

「This is JAZZ !!!!!!!!!」

って叫びたくなるから。

 

 

リンク先ではもう買えませんが、なんとアマゾンプライムミュージックでは無料で聴けるのでもうすりきれるほど聴いてください

 

《おすすめ曲》 

 

 『A Foggy Day』

わたしはかつてこんなにアガる『A Foggy Day』を聴いたことがねえ。なんかよくわからないけどケンタッキー食べたくなってきた。弾むようなピアノの音色もスキャットマンによるもの。実は歌声もかなり良いということが、この曲からだけでもわかっていただけるかと思います。

 

『So What』 

のっけからスキャットごりごり。後半のスリリングなピアノが最高。もはや新しい音楽のジャンル。あらゆる意味づけから自由になった、音を楽しむためだけにあるような曲。

 

『Lady Bird』

持ち味のスキャットと、正統派ジャズサウンドのバランスがいい曲。「洒脱」という言葉がまさにぴったり。

 

とにかく聴いて!!

いい音楽を聴くとめちゃめちゃ興奮して身体が動き出すタイプなので、ウンコハイになった猫みたいに、部屋をぐるぐる動き回りながら今日もスキャットマンを連続再生してます。 とにかくスキャットマンは最高のジャズマンなので、皆さんもぜひぜひ聴いてください。

 

父の歯が抜けていく

 

 

題名のない音楽会」がテレビに流れる日曜日の朝、母が作ったウィンナーと炒め野菜とトーストが乗った食卓の上に、突如異質なゲストが現れた。

 

それは歯であった。

 

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「あぐッ」

 

と父が変なうめき声を出したゼロコンマ一秒後に、カランという音を立ててヤニに染まった長い歯が食卓の中央に躍り出たのだった。よくもまあこんな根の長い歯が、あんなにぽろっと落ちたもんだと今となっては感心する。

 

食卓の空気は凍りついた。

 

父も何が起こったのかよくわからないようだった。ポカンと開いた口の中では、犬歯の横のへんの歯が抜けて真っ黒なブラックホールのようだった。

 

 その歯は今でも母が保管している。

 

最初は屋根の上に投げようという話にもなったが、「もう生えてこねえべ」という父の諦念があまりに説得力に満ちていたのでやめた。母は笑いながら「なんでも記念になるからね」と言って、汚くて長い高麗人参みたいな歯を大事そうにしまっていた。

 

 そう、そのときは記念のつもりだったのだ。

 

しかしその後「父の歯が抜ける」ということは我が家にとって特別なことではなくなっていく。

 

 父の歯ぐきは非常に弱っており、生葉のCMじゃないけどまさに「熟れすぎたトマト」のようになっていたのだった。そんな歯ぐきではとても歯をキープすることなどできない。そんなわけで、歯医者に行くごとに少しずつ歯を失っていくようだった。わたしは当時中学生だったけど、将来は歯ぐきの強い人と結婚したいなと思った。

 

その後、父は順調に入れ歯街道を突っ走り始めた。

 

まずは部分入れ歯になった。

 

洗面台に父の入れ歯用のコップが用意され、寝ぼけてそれを使ったときは最悪の気分になった。

朝のあわただしいタイムスケジュールの中に、「お父さんが洗面台で入れ歯を磨く時間」という工程が増え、微妙なストレスとなった。

 

父は部分入れ歯になっても、ガンガンたばこを吸い、歯ぐきもまたさらに弱っていった。歯は減り続け、ほどなくして部分入れ歯では耐えきれないところまで来つつあった。

 

ところで、これは入れ歯あるあるらしいけど、入れ歯になった者は必ずと言っていいほど残りの「自歯」の数を自慢する。就活でもなんでも、人はやたら残弾の数を気にするものらしい。

 

父の場合も例にもれずそうだった。「まだ十本残ってる」と自信ありげに言われたときは、どう反応すればいいかわからなかった。そして、困ったことに父は残り僅かな自分の歯たちに「特別な呼び名」をつけるという変な癖があった。

 

 

七本残ってるときは「七人の侍」だった。

 

それが五本になり、「SMAP」となった。(今となってはアレですね)

 

それが「伊藤四郎」となり(もっといいの無かったのか)、「三匹の子豚」となり、

 

 

父はついに総入れ歯となったのだ。

 

 

総入れ歯となった父の、入れ歯オフ時の顔を初めて見た時の衝撃は忘れられない。そのときはもうわたしも高校生で、幼いころのように何かの光景が鮮やかに記憶に焼き付くということはほとんどなくなっていたのだけど、その父の顔はどうしたって忘れられないのである。

 

まず、人は歯が無くなるとこんなに顔が短くなるのかと素直に感心した。梅沢冨美男を縦に引き伸ばしたような顔だった父が、なぜか入れ歯をとるとくしゃおじさんと山崎方正を足して二で割ったような顔になった。

 

そして歯がない人間の口というのは、真っ暗闇に見える。光を反射するものが全くなく、不気味な洞窟のようにそれは開かれている。

 

グレートフルデッドベアというキャラクターを知っているだろうか。

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参照:http://www.dena-ec.com/keyword/%E6%B4%8B%E6%9C%8D%E3%80%80%E3%83%AA%E3%83%A1%E3%82%A4%E3%82%AF%E3%80%80%E3%83%93%E3%82%B8%E3%83%A5%E3%83%BC/

 

こいつのように、父の入れ歯をしない口は真っ暗闇に見えた。

 

わたしはショックだった。今まで疑いようもなく父の顔だと思っていた顔が、まったく未知の闇を内包するものになってしまったことにショックを隠せなかった。母だけが笑い転げていたが、わたしと兄はほとんど涙目で見慣れぬ父の顔を見ていた。

 

「なんにゅうかおでみてんにゃよ。(なんちゅう顔で見てんだよ)」と、口から空気をむなしく漏らす父にうまく言葉が返せなかった。

 

しかし人間というのは慣れるもので、通常時と入れ歯オフ時の両方を自然な姿として受け入れられるようになっていった。父の歯がピンクレディー(二本)になったと知ったときも、もうなんとも思わなくなっていた。というか父の歯の状況をまったく気にしなくなった。

 

そしてわたしはそんな歯抜けの父が稼いでくれたお金で、大学進学を機に上京させてもらうこととなる。横浜の新居で引っ越し作業をしてるとき、母はずっと「水回りはきれいにしなさい」とか「昼間はカーテン開けて日の光を入れなさい」とか細かいアドバイスをわたしに与え続けた。一方の父はもくもくと作業し、そのりりしい表情は入れ歯オフ時の顔とはかけ離れていた。

 

一通り、引っ越しのことが終わり、ついに父と母との別れを迎えることとなった。横浜駅の雑踏の中で、ふたりはいつもよりずっと小さく見えて鼻の奥がツンとした。

 

母は別れ際に、「お米送るから、ちゃんと食べなさいよ。コンビニばっかり食べないで。」と日本のお母さんとして百点満点のことを言ってくれた。

 

そして、「ほら、お父さんも何か」と父にも別れの言葉を促した。

 

もともと寡黙な父はすこし面倒くさそうだったが、やっとのことで重い口を開いた。

 

「あの…歯、磨くように。思ったより簡単に、歯は抜ける…。」

 

わたしはもう父という人をよく知っていたので、とくに「今そんなこと言うか?」とかは思っていなかった。ただ、一つだけ聞きたいことがあった。

 

 

「お父さん、今、何本?」

 

 

ラストサムライ。」

そう告げる声は、雑踏の中でもすうっと耳に届いた。

 

 

 

 

 

 

 

 

【マツケン】感性がインド寄りな人々【ミッチー】

バーフバリの過剰さが最高に良い

 「バーフバリ」の画像検索結果

 https://www.huffingtonpost.jp/2018/05/30/baahubali-twin_a_23446544/

 

インド映画がアツい。

インド映画とは「過剰」の権化である。

 

バーフバリが面白くて、二回観た。バーフバリは半沢直樹もびっくりの勧善懲悪もので普段なら胃もたれするようなストーリーである。でもバーフバリはスケールが違う。なにもかもが過剰である。

 

まず登場人物の描かれ方が過剰である。本題からはズレるけど、紹介したいので紹介する。 (ネタバレを含みます)

 

一代目バーフバリは生まれながらにして、民を思い民に愛される王の素質を持った男。異常なほど強く、味付け海苔一枚で人ひとり殺せそう。そしてめちゃくちゃ優しい。そして血のつながらない国母シヴァガミを深く慕う、要はかなりのマザコン。そしてこのシヴァガミもめっちゃ強い。短刀みたいなので、屈強な男を軽く2、3人は殺してた。

 

※タップすると再生されます 

 

 

 

二代目バーフバリは村のやんちゃもの。一代目バーフバリと同等の強さを持ち合わせ、自らの出自を知ってから、戦闘を通して王の素質を開花させていく。気に入った女の手に勝手にタトゥーを掘るなど、何気にヤバい恋愛スタイルの持ち主。囚われの身になっていた母デーヴァセーナ(一代目バーフバリの嫁)のために戦う。このデーヴァセーナもめっちゃ強い。

 

自分とおそろいのタトゥーを掘り、見事意中の女をゲット。もはやなんでもありのリア充っぷり。

 

 

そして外せないのが、悪役バラーラデーヴァ。一代目バーフバリと王の座をかけて争ったライバル。卑怯な戦い方が仇となり、国母シヴァガミの実子であるにも関わらず王の座を逃す。それ以来一代目バーフバリを憎み、抹殺した後は二代目バーフバリが攻め込んでくるまで王国を支配する。コンプの塊のようなキャラで、わりと共感できる。猛牛をひとりで抑え込むなど怪力の持ち主。ギャグ寸前のヤバい武器で戦う。「ゼルダの伝説」でしか見たことないような、鎖につなげたトゲの生えた鉄球みたいなのを振りかざしたり、刃がぎゅいんぎゅいん回ってるダサい戦車で敵陣に乗り込んで大量殺戮を行ったり、超クレージーな戦法。最期はお察し。

 

 

 

こうやって登場人物について書いているだけで、クラクラするほど強烈である。このてんこもり感。過剰、過剰、過剰。

 

そして豪華絢爛なセット、やりすぎなワイヤーアクション、気合いの入った歌と踊りがわたしたちの脳の判断能力を奪いトリップ状態へ誘う。ジェットコースター感覚だったからシーンが断片的にしか思い出せない。

 

  • シヴァガミがまだ赤子のバーフバリを抱き上げて、「アマレンドラ・バーフバリーーーーー!!!!!!」って叫んで後ろで花火バーン!!!!

 

  • 二代目バーフバリがいつの間にか民衆の中に紛れ込んでて、それに気づいたモブのおじさんが「バ、バーフバリ?」ってつぶやいてから徐々にバーフバリコールが盛り上がって、みんなで巨大な像持ち上げて赤い粉がフッサァー

 

  • ヤシの木しならせて、三、四人くらいまとめて城壁の中にポーン

 

なんかろくな場面覚えていなかったけど、とにかく一秒一秒すべてが見せ場で、事件。

視覚と聴覚にうったえる最高のエンターテイメント、バーフバリ。

 

すべてが過剰で、最高。表現の無駄をそぎ落として洗練へ向かおうとする、他の芸術とは一線を画したこのてんこ盛り感。この過剰さを生み出しているのは、「これ観て楽しんで!!!!楽しめよ!!!!!」という作り手の思いだと思う。

 

洗練を放棄して、アイディアの全部盛状態を視聴者にお届けする、This is ボリウッド。そのエネルギーが、画面越しに伝わってくるのである。観終わった後はちょうどいい塩梅でサウナに入れたときと同じコンディションになれた。

日本にもあった、ボリウッドイズム

ミッチー 

 

先日なんとなくミッチー(及川光博檀れいの旦那)のMVを観ていた。

 

 

 

 

この絶妙なダサさは何なのか。

 

なんだそのシャツどこで買うんだ。

ただミッチーがキメッキメの笑顔でこちらを見るとき、なんか妙に元気が出る。血行が促進される感じすらする。

 

ミッチーもやはり、「僕を見て!!!!楽しんで!!!!!」という心意気を持った生粋のエンターテイナー。根強いファンがいることにもうなづける。

 

そして洗練とは程遠い過剰演出をしてしまう、ボリウッドイズムの持ち主でもあるのではないか。ミッチーはとにかくよく笑い、踊る。

 

そして真打を発見してしまった。

松平健(マツケン)

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 参照:lifehackplus.jp

 

上様こと松平健が「マツケンサンバⅡ」で日本中を席巻してからおよそ10余年。

はじめこそ、上様ご乱心と国民が心配したが、あれよあれよと皆がアミーゴとセニョリータとなり踊りまくった狂乱の時代。キンピカの悪趣味寸前の着物を身にまとい、色とりどりの町娘を大量に従えて、のびやかな歌声とキャッチーなダンスを踊る。言うまでもなくインド的である。

 

 

 

オーレー オーレー (デレレレレ!)  マッツケンサンバ~~~~~

オゥレイ!!!

 

みんなで歌って踊って見て楽しめる、最高のショータイム。徳川家とリオのカーニバル双方のイメージをぶち壊して行く、破滅的エンターテイメント。この「マツケンサンバⅡ」にも、「楽しんでほしい」という思いを、出し惜しみしない過剰ともいえるような演出に託すボリウッドイズムを感じる。

 

上様の流し目、りりしい表情、適当なようでいて無駄のない動き。ダンスの腕と表現力を鍛え上げたボリウッドスターとやはり重なる。

 

と思ってたらモロにインドな曲を発表していた上様

幻の曲マツケンマハラジャをお聞きください。 

 

 

何やってんだよ!!とむやみに叫びたくなるこの曲。

 

卒業制作のようなクオリティの映像に、際立つ顔力。

スプーン投げる時の無駄にキリっとした表情。

誰得な増殖。

 

完全にシヴァ神に魂を売った上様の姿がここにあった。

 
 
 
 

 

ユリイカ 2018年6月号 特集=『バーフバリ』の世界 ―インド映画と神話の豊穣―

ユリイカ 2018年6月号 特集=『バーフバリ』の世界 ―インド映画と神話の豊穣―

 

 

 

 

 
 

 

ごみを拾って届けたら変なあだ名がついた日

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みなとみらいは風が強すぎる。海風とビル風がびゅんびゅん吹いてて、うちの母親(もたいまさこ似)はメガネを軽く15メートルは飛ばされた。「メガネメガネ」って言いながら、腰をかがめてよたよた歩いてく母を見てたら、なんか無性にさみしい気持ちになってわたしもやけくそみたいに「一瞬の風になれ」って感じでメガネを追いかけた。

 

そんなわけでみなとみらいはわりとあらゆるものが風に舞ってる。風に舞い上がるビニール袋にシンパシーを感じてぐっとくる人って案外多いみたいだけど、みなとみらいに来ればいくらでも見られますよ。都内のカップルが毎週末気合い入れてのこのこと繰り出してくるみなとみらいに、あえてビニール袋見物に行くというのも案外乙なもの。

 

ビニール袋をぼーっと眺めてるわたしに、立派なひとは「拾えよ」とか言うかもしれないけど、わたしは結構拾う派で、そのせいでこないだ妙なシチュエーションになった。

 

例のごとくわたしはみなとみらいで友達とぶらついてて

「あそこ昔パレタスだったよな」とか

「かもめが風に身を任せてめちゃくちゃ楽してる」とか言いながら思考力停止状態で歩いてたんだけど

 

急に近くにいた木南晴夏みたいな女性が

「ああっ」と叫んだ

 

「!?!?」と思って振り返ると、ソフトクリームのコーン部分を押さえる紙みたいなのが、女の人の手をするっと離れて舞い上がっていた。

 

あんまり迫真めいた感じで「ああっ」とか言うから、わたしも自然と体が動いて一心不乱に舞い上がる紙屑を追いかけたんだけど、風にあおられて結構遠くまで行くから追いかけてるうちに妙な気分になってきた。常々走り方ダサすぎといわれるわたしが、みっともない姿さらしながらごみ追いかけてるのってなかなか憐れみを誘うシチュエーションだったと思う。

 

ごみ落とした人と、友達は普通に突っ立たままだからなんかわたしだけがんばっちゃった感じになっちゃって、ちょっと笑いそうになった。

 

やっとのことでごみを掴んで引き返すとき、いろんな思いで頭が混乱した。

 

ごみ拾ってわざわざそれをもち主にリリースしていいものか、とか

どんな顔をしてごみ片手に凱旋したらいいものか、とか

ごみを「はいどうぞ」ってやるひとってやっぱ頭おかしいんじゃないか、とか

小走りでごみを渡しに来るひとってやっぱ客観的に頭おかしいんじゃないか、とか

 

頭が混乱するうちに、木南さんのまえにずささっと到着して

(どうしよどうしよ)

と思いながらも、ごみをもった手をビーンと突き出していて

 

口をついて出た言葉は

「(こんなんで)いいんですか?いいんですか?」

だった。

 

その日わたしは「ラッドネキ」と呼ばれた。

 

 

いいんですか?

いいんですか?

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風に舞いあがるビニールシート (文春文庫)

風に舞いあがるビニールシート (文春文庫)

 

 

 

 

 

 

書評 『日常に侵入する自己啓発 生き方・手帳術・片付け』

 

何がわたしたちを焦らせるのか

こんな本を読んだのです。 

日常に侵入する自己啓発: 生き方・手帳術・片づけ

日常に侵入する自己啓発: 生き方・手帳術・片づけ

 

 

 

 

別にキャッチーな部分がどこにもない、半分学術書みたいな本なんですけど「自己啓発」という単語を目にしてすこし心がざわついたので手に取りました。こうして怠けて暮らしていて、ふと焦るような気持ちになるのにはこの「自己啓発」的な考え方と自分とのズレを感じてしまうからではないだろうか。以下書評です。

 

やたらと焦りに駆られるわたしたち

 

 人生死ぬまで暇つぶし、と思って無目的に、向上意欲もなしに生きることはこの世では「怠惰」とされ、ひんしゅくを買うものであるらしい。そのように生きることはわたしにとって永遠の憧れであるが、現実的には厳しい。寅さんや落語の若旦那が魅力的に映るのはフィクションの世界においてのみである。現実世界では、あまりに「怠惰」だとヤバい奴扱いされるし、当人も焦ってしまう。きっとわたしも気が小さいから、そんなふうには生きられない。

 

「自分の人生はこれでいいのか?」という不安に無縁な人はほとんどいないはずであり、この本のテーマである「自己啓発本」の売り上げはそのような人々の「焦り」によって支えられているといっても過言ではない。この本は、「自己啓発本」の主張の変遷や需要のなされ方を社会学的に分析しつつ、わたしたちの生きる地盤としての近代的思考を問い直す、身近なものを扱うようでいてなんだか意外とビッグな本なのである。

 

「焦り」は他者との比較から生まれる

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「焦り」はそもそも他者がいるからこそ生まれるものである。自分より充実していそうな他者、優秀そうな他者を見たとき、人は自らを優劣の構図に落とし込み、焦る。そして焦った挙句、どうするかというと他者との「差異」を作り、卓越しようとする。では何をもって他者との「差異」を生み出すべきか、その通俗的指標を三十年以上にわたって生産・流通させ続けているのが「自己啓発本」なのである。いわばアイデンティティを求める者の駆け込み寺みたいなものだろう。

 

自己啓発本」の手法

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では一体「自己啓発本」にはどのようなことが書かれているのか。読んだことのある人はわかると思うが、ひたすら「日常」にフォーカスするのである。「日々の生活をおろそかにしていませんか?」という問いかけは、誰の心も打つだろう。日常の些細な営みに対する心理的な働きかけが積み重なって、他者を大きく引き離した「自己」が形成されるのだという主張が繰り返し繰り返しなされる。

 

著者はこの「自己啓発本」の特徴を、フランスの社会学ブルデューが用いた言葉「ハビトゥス」によって説明しようとする。「ハビトゥス」とは、社会的に獲得された自覚を伴わない性向の総体であり、ゆえに属する社会的階層によって異なるものである。個々人が獲得した「ハビトゥス」は、それぞれの慣習行動を決定づけるものとなり、それによって社会的階層の格差がより強固になるという構造的な問題を指摘したのがブルデューであった。このブルデューの論と真逆なのが「自己啓発本」による主張である。

 

自己啓発本」は読者が置かれている社会的階層や財力はいっさい無視し、「大切なのは今。日常をどう過ごし、どんなハビトゥスを獲得するか、それがあなたを卓越した存在に導くのだ。」という主張を実体験やそれらしい実験結果を交えながら展開していく。「ハビトゥス」を一から作り上げ、それによって社会的に上に行こうとする姿勢を提案するのが「自己啓発本」なのである。

 

男も女も他者との「差異」を目指している

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日常へのコミットメントを通して他者との差別化を図ろうとする姿勢は「自己啓発本」に共通することであるが、男性向けと女性向けの年代本の違いも本書において分析されている。

 

男性向けも女性向けも、年代ごとに分岐点が設けられ、焦りをあおるような文句が全面に出される。男性の場合は、現状への焦りをムチにし仕事における卓越を目指す方向に向かうのに対し、女性の場合は「自分らしさ」を磨くことによって加齢や仕事・結婚への焦りを鎮静化する方向に向かう。

 

図式においては対照的な両者ではあるが、実は他者との「差異」を目指す姿勢はどちらも変わらない。ナンバーワンを目指すか、オンリーワンを目指すかという違いはあれど、「他者から見て少しでも特別でありたい」という欲求をともにしているのである。
 

「手帳術」の時間感覚

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 男性向けの年代本の志向と似通ったものを見て取れるものとして、著者は「手帳術」を挙げている。かつて「手帳術」ブームがあって、「仕事ができる人のスケジュール管理」だとか、「手帳の使い方で仕事に差がつく!」といった本が書店に並んでいた。

 

 時間をマス目状に区切り、予定を書き込み、特定のスパンでの目標を打ち立てていくことで仕事の効率化を図る近代的「手帳術」は、仕事での卓越を目指す男性向け年代本と相性抜群といえる。この効率化を目指す類の「手帳術」における時間感覚は、まさに「量的」といえ、この近代的な時間感覚がわたしたちの「焦り」に直結しているのではないだろうか。

 

パパラギ』における文明人の時間感覚とわたしたち

 

 近代的な時間感覚だとか、「量的」な時間感覚だとか、「手帳術」的な時間感覚がどうのとか、わかりづらいことばかり言ってしまった。(どれもほぼ同じ意味です)

 

この時間感覚の異常さを語るために、かつてはじめて白人たちの「文明社会」に触れたツイアビさんの言葉を借りよう。「パパラギ」とは「白い人」、「外国人」の意である。この本では、南海のサモアの酋長ツイアビがヨーロッパを訪れて見た「パパラギ」について語るという形式で、西洋文明の批判が展開される。

 

 

パパラギ はじめて文明を見た南海の酋長ツイアビの演説集 (SB文庫)

パパラギ はじめて文明を見た南海の酋長ツイアビの演説集 (SB文庫)

 

 パパラギは、丸い金属と重たい紙が好きだ。死んだくだものの汁や、豚や牛、そのほか恐ろしい獣の肉を腹に入れるのが好きだ。だが、とりわけ好きなのは、手では決してつかめないが、それでもそこにあるもの――時間である。パパラギは時間について大さわぎするし、愚にもつかないおしゃべりもする。といって、日が出て日が沈み、それ以上の時間は絶対にあるはずはないのだが、パパラギは決してそれでは満足しない。

そう、彼は日々の新しい一日を、がっちり決めた計画で小さく分けて粉々にすることで、神と神の大きな知恵を瀆してしまう。柔らかいヤシの実をナタでみじんに切るのとまったく同じように、彼は一日を切り刻む。切り刻まれた部分には、名前がついている。秒、分、時。秒は分よりも短く、分は時より短い。すべてが集まって時間になる。分が六十と、それよりずっとたくさんの秒が集まって一時間になる。

 

 この素朴な語りに耳をすませば、現代人が信じて疑わない時間の在り方が揺らいでくる。時間を区切り、効率化を目指し、疲弊し、「一日が48時間になんねえかなー」などと願うことの愚かさ。でももう後戻りできないところまで来てしまった。ツイアビ、なかなか鋭いな。

 

と、思いきや

パパラギ』(: Der Papalagi)は、1920年ドイツで画家で作家のエーリッヒ・ショイルマンによって出版された書籍である。ヨーロッパを訪問したサモアの酋長ツイアビが帰国後、島民たちに西洋文明について語って聞かせた演説をまとめたものとしているが、実際はショイルマンの手によるフィクション偽書)である[1]

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%91%E3%83%91%E3%83%A9%E3%82%AE

 

ウソかよ!!!!

 

ショイルマンという人、とんでもないウソつきのようです。とはいえ、ここまで気合いの入った西洋文明批判ができるというのは、なかなかにすごいこと。近代的な時間感覚に対して、強烈な違和感を抱いていないと書けない文章でしょう。時空を超えて仲間を見つけた気分です。

 

では、もとの話題に戻ります。

男と女は時間軸のスケールが違いすぎるだけ 

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 本書においては、「手帳術」的な時間感覚に、男性の「仕事効率化」志向があてはめられて論じられている節があるが、女性だって実は人生全体を量的な時間によって区切られており、そのことに対する無意識の「焦り」を常に抱いているのではないかと個人的には感じる。

 

 「遊んでられるのも若いうちだよねー」と言うのも、結婚に焦るのも、同窓会までに必死で痩せようとしたりSKⅡをライン買いしたりするのも女である。初潮から始まり、子を産むことができる体力的なリミットがあり、それに伴う結婚適齢期があり、更年期障害になり、ついには閉経する。

 

 そうした生物学的、また社会的な節目で区切られた一生を、若いころの多彩な恋愛や幸せな結婚生活、育児、充実した老後で埋め尽くし、他者よりも幸せな「自分らしい物語」を作り上げようとする女の在り方。

 時間をマス目状に区切り、余白もないほどびっしりと予定をうめ、仕事を効率的に進めて「デキる男」としての自分を作り上げようとする男の在り方。

 

結局時間軸のスケールが違うだけで、どちらも区切られた時間の中でじたばたとあがいているのである。

 

自己啓発をひもといて


「限られた時間」、「一度きりの人生」、これらは「自己啓発本」でよく見かける言葉だが、近代的な時間感覚のなかで他者から抜きん出ようと「焦る」わたしたちの心にはグサりと来てしまう。本書は「自己啓発本」をとりまく諸状況を社会学的に緻密に分析したものであり、とくに「自己啓発本」自体に対する痛烈な批判がなされるわけではない。しかし著者の分析によって、いかにわたしたちが区切られた時間のなかで焦らされているか、他者との差異化に捉われているかがあぶり出されることとなった。

 

我々はもうすっかりパパラギである。

 

 

牧野智和『日常に侵入する自己啓発』読書メモ集

https://togetter.com/li/1245779

 

togetterに感想書いている方もいました。
       

駄文がおすすめ記事に載ってしまいました

アクセスが伸びるなあと思っていたら、おすすめ記事に載っていました。

 

marple-hana1026.hatenablog.com

 

この駄文が。

 

ブログはこれが初めてなので、はてなブログの特殊さとかよくわかっていなかったんですが今回改めて実感しました。普段150アクセスくらいで「やったーやったー」と思ってたんですけど、今日に限って7倍くらいに増えました。今までグーグルからの流入が9割だったのに、逆転してしまいました。

 

ただわからないことが多すぎる。

はてなブックマークに来たコメントに返信できないし。

そもそも「はてブ」をはてなブログの略だと思っていたようなとんでもない情弱なので、なにかと大変です。

 

あと最近「スターをつける」という行為を覚えて、うれしくて使いまくるというかわいらしい状態になっております。あと、ブックマークをしてコメントを残すという行為も覚えましたがまだ使いこなせていないです。「はてな初心者のための○○」みたいな記事がとてもありがたいです。

 

人に見てもらえる状態で文章書きたいというシンプルな動機で始めたブログだからアクセス増えるのはうれしいけど、駄文ばっかり書かないようにしなきゃ、というのがまた駄文なんですね。