電気売りの青年
在宅勤務もひと段落した昼下がり、暑いけど部屋をキンキンにしてサッポロ一番みそラーメンでも食べようとキッチンに行くと、外から声が聞こえてきた。男の声で、何やら切実に「あの~、お~い」みたいなことを言っている。とりあえず鍋に水を入れて火にかけたけど、何か困ったことでもあったのだろうか、と気になってドアを開けて首を出してみた。
外には白いワイシャツを着た若い男がいて、隣の部屋のドアに向かって声を出していた。首からバインダーをぶら下げて、「すみませ~ん」と言ってはチャイムを鳴らしている。チャイムを鳴らしても出ないんだから居ないんだろ、諦めろよ、と思った。どう見てもネット回線やら保険の営業だったので、興冷めして首をひっこめようとすると、男は「あ!」と言ってわたしの方を見た。
わたしも変わらずドアから生首のように顔をのぞかせながら、男の顔を見た。すごく目がキラキラしていた。
たぶんわたしより少し年下で22、23歳ぐらい。沖縄でダイビングのインストラクターでもしているのが似合いそうな、爽やかな好青年だった。あまり嬉しそうに「あ!」と言うので、もしかして大学か何かで会ったことがあるだろうかとも思ったが、そういうわけでもないようだった。
しばらく黙って見つめ合っていたが、男が突然大きな声で言った。
「電気って、使ってますか!?」
わたしは少しの間黙っていた。
「使っていますが…」
自分は本当に電気を使っているのだろうか、と一瞬迷ってしまったのだ。そんなにまっすぐに問われては、一つ一つのことを真摯に考え直さなければいけなくなる。そう、わたしは毎日、電気を使って生きている。
男はぎこちなくこちらに歩み寄りながら、なおも笑顔で「では、毎月の電気代はどういうふうに確認していますか?」と聞いてくるので「スマホで見てます」と答えた。
「スマホで見てるんですか!すごい!」と男は言った。なめてんのか。
この時点でドアを閉めるのが正解だったと思う。しかしわたしは、こういう営業系の訪問に対して、一度会話を始めたらきれいに終わらせた方が、人間としてより善いのではと思ってしまうところがある。
もうこの時点で、電力会社の営業だということはわかっていたので、「電気はもういろいろ調べて自分なりにいいと思ったところに乗り換えたばかりですし、しばらくは変えたくないんですよ」と言った。ぴしゃり、という感じをイメージしながら言った。
「もっと安くなります!」と男はめげなかった。その上、「考えてもみてください、月に数百円でも12カ月、何年も積み重なればけっこうな額になります」などとくたくたと喋るので、わたしはいい加減サッポロ一番が食べたくなってきた。
「数百円損しても、今はちょっと変えるのが億劫で…」
「電力自由化って知っていますか?」
「知ってますよ、それで調べて今の電力会社に変えたんで」
「すごいなあ! よく知っていますね」
それをやめろ。誰に教えられたんだそのコミュニケーション。男はもう油断しきった感じで、ニコニコしたまま手を後ろに組んで膝をかくかく動かしていた。こういう訪問営業系になめられることはよくある。衛星放送の押し売りが来たときに「すみませんわかんないのでいいです」と断ろうとしたら、おじさん訪問員が「わからないんでちゅかぁ?」と幼児言葉で話しかけてきたのでムカついてドアを無理やり閉めたことがあった。そのときは家にたまたま彼氏が来ていたので、「こんなになめられるんだぞ、さあ思う存分守りなさい」と説き聞かせたものだった。
男がパンフレットのようなものを持っているのが見えたので、「それ入れておいてくだされば後で見ますから、今はちょっと昼ごはん食べたくて」と言うと、男はぽかんとして「ごはん食べたいんですねー」とそのまま返してきた。そしてやっぱりめげずに「パンフレット見ながら、5分ぐらいのお話だったらいいですか?」と上目遣いの笑顔で言ってきた。わたしはなんだか悲しくなった。この人はオウム返しとか単純な褒めとか笑顔とかを対人スキルとしてせっせと学んで、こうして学んだものを安易に乱れ打ちして、わけわかんなくなってんだなと思った。わたしもバカだな。断るのなんて簡単なのに、ていのいい方法を考えて余計ややこしくなって。こんな人間同士が話し合ったところで、何になるんだろう。こんな空しいことがほかにあるか。“停滞”という言葉が浮かんだ。
キッチンでは湯がわいて、もわっとした空気が立ち込めていた。男はなおも「少しだけいいですか、いいですか」と言っている。わたしの昼ごはんのような緊急性の低い用事では、彼を諦めさせることはできないようだった。腹が減ると同時に、腹が立ってきた。男の目はやっぱりキラキラしていた。どうしてそこまで。
「とにかくお腹が空いてるんですよ、すみません」
そう言って、首を素早くひっこめてドアを閉めた。男は最後もまた「あ!」と言っていた。きれいな終わり方だったのだろうか、これは。ドアがあるって、すごくありがたい。さらに、ドアが透明じゃなくてよかった。しばらくして、こわごわとモニターを見ると、男はもう出ていったようだった。
そのときにはもう汗をかいて、サッポロ一番をそれほど食べたくなくなっていた。
スピーカーから筋肉少女帯の「香菜、頭をよくしてあげよう」を流し、膝を抱えながら聴いた。あの男は仕事じゃないときは、目がキラキラしていないんだろうか。その方がむしろ安心するなと思いながら、やっぱりサッポロ一番を作ることにした。