阿部寛のHPを定期的に覗きに行くことから足を洗いたい
阿部寛のホームページ
一年に数回
「まだダサいのかしら」
と気がかりになって覗きにいってしまう。
常に気がかりなわけではないけど、「阿部寛のホームページが今でもダサいのか」という問題はわたしのババロアみたいな脳みその0.01パーセントくらいを占拠している。これは大変な無駄だと思う。だってどうせ阿部寛のホームページはずっとダサいままだろうから、気にかけてもどうってことないのだ。でもやっぱり見に行ってしまう。もしかしたら超クリエイティブなサイトになってたらどうしようという一抹の不安を抱えながら検索し、URLをクリックすると
http://abehiroshi.la.coocan.jp/
秒速だった。
まだダサかった、ありがとう。
昔あったテキストサイトが、更新もされずにかといって削除もされずに電子の海に漂い続けているかのようなこのホームページ。
しかし★★★最新情報★★★がしっかり最新情報なのが何度見てもぐっとくる。
TBS日曜劇場『下町ロケット』New!
2018年10月スタート
時空の歪みを感じる。だって今から三か月先のことを伝えちゃってるから、本気の最新情報なわけで。
このサイト、たしか有志のファンの方が手作りしていたのをそのまま公式ホームページにしたとか。それをずっと使い続ける阿部寛の豪傑っぷり。ちょっとでもクリエイティブ側になびいたらがっかりしちゃう。
このサイトの何がダサいって、全体的にダサいんだけど
これよ
このクリンっとしたフォントが小憎らしい。
そして一面にこのABE Hiroshiが執念深く敷き詰めてあるのがたまらなくダサい。でも好き。
そしてこの阿部寛のホームページを見終わって、「ああダサかった」と安心してから、なぜか見に行きたくなる動画がある。
YMO 君に胸キュン
何度見てもダサくて安心。そしてここでも三人の写真が執念深く床に敷き詰められている。ダサいものを作りたかったら、とりあえず何かを敷き詰めればいいのかもしれない。
しかしこれが一周まわってオシャレみたいな世の中になったら、自分だけは気が確かな人間であると自信をもって声高に「これはダサいですよーーー!!!!」と言い続けたい。途中で細野晴臣さんが虫歩きで女性を執拗に追い回すところなんて、もうね。
いやそんな据わった目で
「キュン?」とか言われても。
こうして年に数回、非生産的な「ダサはしご」をしないと気が済まない人間になってしまって。そろそろ足を洗いたいんだけど、やめられない。
子供のキレキレダンスはなぜこうも癖になるのか
子供が踊る。それもキレキレで。
すると笑いが起こる。
※タップすると再生されます。
フォーーーーーーーウ!!!!と叫び、笑う大人たち。
なぜわたしたちは子供がキレキレで踊っているとウケてしまうのだろうか。
子供からしたらこちとら真面目に踊ってんだよという感じだろう。でもわたしたちはやっぱりウケてしまう。子供がキレキレで踊ることのおかしみは、ひとえに「いっちょまえ感」にある。言い換えれば「踊りやがって、このこの」という気持ちである。ひどい話だ。でもそれが癖になる。かわいらしさと憎たらしさ半々といったところで、心が揺さぶられるのだ。
子供のキレキレダンス動画という、新たな病みつきジャンルを発見してしまったわたしはついにある至極の動画にたどり着いた。
これはパンジャブ語らしい。わたしには「ホニャホニャホニャ、ジジイカルタ~」とずっと歌っているように聞こえる。この謎の歌も中毒性が強いのだけど、踊ってる子供のクセの強さよ。
四肢は小っちゃくてめちゃくちゃかわいいのに、顔は憮然としてる。眉と目が極限まで近くて、顔だけ大人物。
なんか目をカッと見開いてこちらに近づいてくるときなんか特に最高で、「ウワウワウワウワ」って気持ちになる。あと険しい表情でゆっくりうんこ座りするのも最高。なんか、うまく言葉にできないけどこの動画の中毒性はやばい。
あともうひとつ見つけたのがこれ、
これは単純に曲がめちゃクールなので紹介したかった。
これはアロー・ブラックていう黒人歌手のPV。アヴィーチーとも一緒に曲出してたはず。このキレキレキッズはかなりクオリティ高くて、笑えない。ただただかわいらしい。そしてやっぱり癖になる。
これからも子供のキレキレダンス動画コレクターとして生きていこうと思います。
他人の言葉を摂取して生きる
文章を書いているときや話しているときに、つい独特な言い回しをしてしまい、「独特ですね」と言われることがある。しかしそれは思い返してみれば、人生のどこかであった誰かの模倣であって、自分オリジナルなものではないのである。
中学校のときに仲が良かったTちゃんも、独特な言葉を使う人だった。
私たちは同じクラスで同じ部活、暇さえあればずっとしゃべっていたのでTちゃんの独特な言い回しを四六時中浴びているような感じだった。
あるとき、わたしとTちゃんはクラスにいる不良の男子についてしゃべっていた。
その彼は授業中に時々ドアを蹴って出て行ったり、学校にこっそりタバコを持ってくるようなプチ不良だった。クラスのほかの男子がおとなしいもんだから、彼は逆に浮いていていつもどこかさみしげだった。
その彼についてあーだこーだしゃべっているときにTちゃんはふと
「スパイスだよね」といった。
「はい?」というと「スパイスじゃんね」と答えた。
どうやらTちゃんは、平和なクラスにちょっとしたドラマティック感を演出してくれる彼の存在を「スパイス」であると言いたいみたいだった。なるほど。たしかに何も起こらない平和なクラスで、たまに彼がキレるとちょっとしたお祭り感があった。
しかしTちゃんはあらゆる場面で「スパイス」と言うようになった。
わたしの靴下が赤だったときも「スパイスだね」
誰かが珍しく面白いことをいったときも「今日スパイス効いてるね」
このTちゃんのスパイス集を近くで聞いていて、「スパイス」という言葉が実に豊かなイメージを持っていることがわかった。
わたしはスパイスと聞くと脳にまずこんな色が浮かぶ
この色の上をいろんなものや人が横切っていく。
あぐらかいたインド人や、カレーのランプみたいな器、ショッキングピンクの蓮の花、ダーシャシュワメードガート、ダルシム。こんなヘンテコなイメージと、目の前で起こっている何事かが、ただ「スパイス」という言葉のみによって接続されることにゾクゾクした。
まあ、わたしが勝手にTちゃんの多彩な「スパイス」使いにゾクゾクしていただけであって、なにかアクセントになるようなものにたいして「いいスパイスだね」ということは別に変なことじゃないのである。でもTちゃんが言うときのあの何とも言えないドヤ顔とスカした感じも妙にツボで気に入っていた。あえて「よくスパイスって言うよね」とは指摘しなかった。やめてしまいそうだから。
もうTちゃんとはほとんど会わなくなったけど、Tちゃんの独特な言葉遣いが自分にも染みついちゃっているなと時々思う。平均よりは「スパイス」という語を使う回数が多いほうだと自負している。
ついでに言えば、わたしはよく「土俵」という言葉を使うらしい。
「同じ土俵では戦えない」
「そもそも土俵が違う」
「コンプレックスをあえて土俵に上げる」
「土俵入りするような気持ちでいく」
力士より言ってるかもしれない。わざわざ「土俵」って言わなくても伝わるような場面でも言ってしまう。もうこれは不治の病である。
おそらく「土俵」を好んで使う人にどこかで接してきたのだろう。誰だかはわからないが、その人はいまわたしのなかで「土俵」として生きているのである。実際にも生きているだろうけど。
こういうわけで、わたしの使う言葉はいままで出会ってきた人の言葉のパッチワークみたいなものである。Tちゃんも「土俵の人」も、わたしが書いたり話したりする言葉の中で生きて、踊り狂っている。
あの頃、「いい匂いの練り消しをもってる子」がイケてた
子供の世界では、妙な条件がヒエラルキーを左右することがある。
わたしの頃の場合、いい匂いの練り消しをもってる子がイケていることになっていた。ここで言う練り消しは、男子が消しかすを集めてつくる鼻クソみたいなやつのことではない。上の画像のような、小さいプラスチックの箱に入った、カラフルで、フルーツやコーラのいい匂いがする練り消しのことである。
これが流行るまではみな一様に、ちゃおの付録のペンを使っていて、それを取りかえっこするのが社交だった。
そしてこの練り消しは完全にブームを塗りかえた。
皆がこのいい匂いのするぷにょぷにょした物体の虜になった。
ひとり、またひとりと練り消しユーザーが増えていった。
みんなこれを消しゴムとして使うのではなく、感触を楽しんだり、友達に匂いを披露したりするためだけに使っていた。そのときは練り消しの匂いの嗅がせあいが社交だった。
しかしちゃおペンのときのように、気軽に取りかえっこが行われることはなかった。格別に親しく思っている相手との信頼の証、もしくは気に入られたい相手への献上品としてひっそりとやり取りされていた。むぎゅっと練り消しを半分にちぎって、「はい、○○ちゃんにだけ」とささやくのだ。自らの手垢にまみれた練り消しを、誰かにあげるということは特別な意味をもっていたのである。
すると、人気の高い子のもとにはたくさんの練り消しが集まる。赤に黄色、オレンジ、ソーダ色、ピンク。色とりどりの練り消しは、ヒエラルキートップのあかしだった。その子は授業中、むっちゃむっちゃとたくさんの練り消しをもてあそび、マーブル模様にしていた。
トップがいればもちろん下もいる。せっかく勇気を出して、中心グループの子に話しかけて自分の練り消しをあげたのに「汚い」と言われて陰で捨てられている子がいた。その子は、自分のあげた練り消しもマーブル模様のなかに消えたのだと思っていたかもしれない。もちろんその子の手元には、半分にちぎられた自分の練り消ししか残っていない。
そしてトップもいれば下もいるし、ヒエラルキー外もいるのである。
練り消しを買いすらしなかった人々である。わたしがそうだった。
わたしはカドケシ派であった。カドケシを使っていると、「ああ、あのひとはカドケシの人だから」という暗黙の了解ができあがり、ナチュラルに練り消し社交から距離を置くことができた。一度「あっちの人」と思われるとあとは楽である。
わたしがカドケシ路線で、社交上のわずらわしさを避けているうちに練り消し文化は衰退した。授業中に練り消しを触る生徒たちに担任がキレて、教室への持ち込み禁止になったのである。
その後はカドケシが流行り、わたしは第一人者として一目置かれた時期もあった。しかしそれももう昔の栄光。
狭いコミュニティのなかでの価値基準なんて、無根拠でテキトーで移ろいやすいものである。これを小学校のときの練り消しブームから学んだ。
ごみを拾って届けたら変なあだ名がついた日
みなとみらいは風が強すぎる。海風とビル風がびゅんびゅん吹いてて、うちの母親(もたいまさこ似)はメガネを軽く15メートルは飛ばされた。「メガネメガネ」って言いながら、腰をかがめてよたよた歩いてく母を見てたら、なんか無性にさみしい気持ちになってわたしもやけくそみたいに「一瞬の風になれ」って感じでメガネを追いかけた。
そんなわけでみなとみらいはわりとあらゆるものが風に舞ってる。風に舞い上がるビニール袋にシンパシーを感じてぐっとくる人って案外多いみたいだけど、みなとみらいに来ればいくらでも見られますよ。都内のカップルが毎週末気合い入れてのこのこと繰り出してくるみなとみらいに、あえてビニール袋見物に行くというのも案外乙なもの。
ビニール袋をぼーっと眺めてるわたしに、立派なひとは「拾えよ」とか言うかもしれないけど、わたしは結構拾う派で、そのせいでこないだ妙なシチュエーションになった。
例のごとくわたしはみなとみらいで友達とぶらついてて
「あそこ昔パレタスだったよな」とか
「かもめが風に身を任せてめちゃくちゃ楽してる」とか言いながら思考力停止状態で歩いてたんだけど
急に近くにいた木南晴夏みたいな女性が
「ああっ」と叫んだ
「!?!?」と思って振り返ると、ソフトクリームのコーン部分を押さえる紙みたいなのが、女の人の手をするっと離れて舞い上がっていた。
あんまり迫真めいた感じで「ああっ」とか言うから、わたしも自然と体が動いて一心不乱に舞い上がる紙屑を追いかけたんだけど、風にあおられて結構遠くまで行くから追いかけてるうちに妙な気分になってきた。常々走り方ダサすぎといわれるわたしが、みっともない姿さらしながらごみ追いかけてるのってなかなか憐れみを誘うシチュエーションだったと思う。
ごみ落とした人と、友達は普通に突っ立たままだからなんかわたしだけがんばっちゃった感じになっちゃって、ちょっと笑いそうになった。
やっとのことでごみを掴んで引き返すとき、いろんな思いで頭が混乱した。
ごみ拾ってわざわざそれをもち主にリリースしていいものか、とか
どんな顔をしてごみ片手に凱旋したらいいものか、とか
ごみを「はいどうぞ」ってやるひとってやっぱ頭おかしいんじゃないか、とか
小走りでごみを渡しに来るひとってやっぱ客観的に頭おかしいんじゃないか、とか
頭が混乱するうちに、木南さんのまえにずささっと到着して
(どうしよどうしよ)
と思いながらも、ごみをもった手をビーンと突き出していて
口をついて出た言葉は
「(こんなんで)いいんですか?いいんですか?」
だった。
その日わたしは「ラッドネキ」と呼ばれた。
「コロコロ場外応援団」が泣けると思ったらそうでもなかった話
久しぶり、コロコロコミック
絶体絶命でんぢゃらすじーさん 第1巻 (てんとう虫コミックス)
- 作者: 曽山一寿
- 出版社/メーカー: 小学館
- 発売日: 2002/08/28
- メディア: コミック
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コロコロコミックの新しい楽しみ方を発見した…
「コロコロ場外応援団」を見て、感慨に浸ることである。
小学館の採用試験にぼろ落ちした身(これは結構よくいるタイプの就活生らしい)だけど、企業研究のために読んだコロコロコミックのこの「コロコロ場外応援団」はなかなかどうして癒されるのである。知らない人のために説明しておくと、漫画のページの下のほうに子供のつたない字で「でんぢゃらすじーさんオモロすぎ!!!!!」とか「ケシカスくんサイコーーーーー!!!!!」とか応援コメントが書かれているアレである。
参照:「くろもり屋 2009年12月27日 心からそう思ってるなら良いけど 」 http://blog.livedoor.jp/weapon_lo/archives/2009-12-27.html
なんかこれ超かわいいなと思って。
そもそも男の子のつたない字フェチみたいなのがあるんですよね。バリバリ働いてるくせに字だけ小学生みたいなサラリーマンっているじゃないですか。もうパソコンで仕事するようになってるから普段はわかりづらいけれど、ふとしたときに手書き文字を見てそれが超下手だったときに「あらやだかわいい」ってなるややキモい嗜好の持ち主なんですね、わたし。
なんかそういう成長しまくりなキャリアに対して、時間が止まってるかのようなつたない字。ああ、このひともドラゴン模様のお裁縫箱とか使ったり、「俺バーサス○○」とか言ったり、「無限バリアー」とか「追尾ミサイル」とか言ったり、何かと提示条件として「百万円」を出したりしていたんだろうなあってほっこりしてしまうんですね。
そしてこの「コロコロ場外応援団」にしこしこと応募しているキッズのみなさんは、まさに今そういう時期を過ごしているんですよね。今でもバリア張ったり、「知ーらんぺったんごーりーら」とか言ったりするんでしょうか。とっても尊いですね。
そんな小学生ライフを謳歌している彼らが、わざわざつたない字ではがきを送ってまで作品へのまっすぐな愛を伝えているということにグッと来てしまう。うちの父が「子供の歌声聞くと無条件に涙が出てくるから危険」て言ってて、「年取りたくねー」と思ってたけど、いままさに子供の字を見るとちょっと泣きそうになるという症状に見舞われているわけです。漫画家も、編集者もこういうのが本当にうれしいんだろうなって想像して、ひとり勝手に感慨に浸っていたんです。
そしてその昔コロコロラバーだった兄に、「コロコロ場外応援団」について聞いてみました。
「あれかわいくない?わざわざはがき出して作品愛を伝えてるなんてかわいすぎない?」と興奮気味にまくしたてるわたしに対し、ショッキングな返答をする兄。
「ああ、プレゼントほしさに書いたなあ。」
良く知らなかったんですが、プレゼントはがきに「コロコロ場外応援団」用の欄があるみたいです。兄は当時はやってた作品をチョイスして「ペン問サイコー!!!」と書いたらしい。
なんと、あの「コロコロ場外応援団」は純粋な作品愛によってではなくて、「なんかプレゼントほしいからついでに書いてやっか。ちょっと良く書けばもしかしてひいきしてもらえるかも」というキッズたちのややゲンキンな思惑のもとに書かれたものだったんですね。
もしくは先ほど参照したブログ
http://blog.livedoor.jp/weapon_lo/archives/2049948.html#more
では当時はやっていたらしい世界のナベアツのギャグ「オモロー」を使って目立とうとする子供たちが多発している状況が見受けられますが、こういうふうに大喜利感覚で「コロコロ場外応援団」を使っているキッズのみなさんも多いのかもしれません。小学校生活において、笑いの感覚を共有するのってとても大事なことですよね。だから、コロコロコミックみたいな皆で読める漫画雑誌って、一種の社会的ツールみたいに機能するんです。そんななかで「コロコロ場外応援団」に掲載されたら、ちょっとそれだけで自慢できますから、まあこぞって応募するでしょう。
「純粋な作品愛はないんかい!!」と一瞬がっかりしてしまいましたが、むしろ逆に小学生はこうでなくっちゃねとも思えてきました。(すみません、うちの兄がゲンキンなガキだっただけで、ピュアな子もいるかもしれませんね)
そもそも、子供のやることなすこと都合よく解釈して感動のネタにするなんてただのエゴですから。
今せっせと「コロコロ場外応援団」を書いているキッズのみなさんは、もう何年もすればコロコロコミックを卒業するでしょう。今よりもっとゲンキンになって、世間擦れして、大人になっても、心のどこかはプププランドにあってほしいものです。そしてわたしにつたない字を見せてほしいものです。
好きな本として『深夜特急』を答えるリスクについて
年上(かなり)の人と話していて好きな本の話になったとき、「深夜特急」と答えると「良いねぇ」と目を細めてくれた。
ここで司馬遼太郎とか山本周五郎とか答えるのもなんか狙いすぎな感じがするし、かといってブログ出身の新人作家を答えてキョトンさせてしまうのも心苦しい。沢木耕太郎isベストであろう、というあざとい計算をしたのである。
沢木耕太郎効果は抜群で、
「ぼくらのときはバイブルでさ。みんな読んでて、貧乏旅行に行ったもんだ。無茶できたよなああの頃は。」などと言って盛り上がってくれた。
問題はその次だった。
「じゃあ君はどんな旅をしてきたんだい?」と問われてしまった。
完全に詰んでしまった。わたしには自信をもって話せる旅がない。
ここで口ごもると、サァーっと潮が引いていくだろう。
興ざめジエンドである。
読書はインドアな嗜みとされているが、この『深夜特急』は例外である。
若者を「ここではないどこか」へ駆り立てる不朽のベストセラーである『深夜特急』。これをあえて好きな本として語る人には何らかの「すべらない旅話」があるということが暗黙の了解となっている。
チョンキンマンションのきったないドミトリーに寝泊まりして南京虫にかまれまくったりしたことがないわたしには、その問いは答えるに易くない。
なんとなく「深夜特急おもしろいし、この世代にはドンピシャだべ」という安易な考えで、めちゃくちゃリスキーな受け答えをしてしまったのである。
ただ、機転の利かせようによってはこの危機を乗り越えられるのではないか。なんにもない街でだらだら過ごすわたしにも、語れることはあるのではないか。
唐突なようだけど、わたしは宮沢賢治のふるさと岩手県の出身である。宮沢賢治は生涯のほとんどを岩手県で過ごしている。自然がある、もはや自然しかない岩手県で弱い身体にむち打ち田畑を耕しながら静かに生涯を終えた宮沢賢治。本当なら「退屈の地」であったはずの岩手県を、自らの心象世界のなかで「イーハトーブ」という架空の理想郷として愛おしんでいた。これは変態と紙一重の所業である。
こんな感じのことを苦し紛れに絞り出したあとに、
わたしは「ここではないどこか」ではなく「いまここ」を愛おしむ想像力を養いたいんですとか訳わからないことをどや顔で言って煙に巻いて強制終了させた。
安易に『深夜特急』をチョイスしてはならない。
アイス総選挙でSkyに1万票入れたい
アイス総選挙
応援しても応援しても推しが花開かない、いたいけなアイドルファンの気持ちがわかったような気がする。
https://mognavi.jp/food/862774
わたしがどのアイスよりも大好きなSkyがかすりもしていなかったから…。
チョコミント論争はしばしば起こるのに、Sky論争はちっとも起こらないから…。
メーカーは江崎グリコ。スクエア型のカップに入っていて、食感は爽とアイスクリンを足して2で割った感じ。しかし味はただのバニラではなく「サワーバニラ」という攻めたフレーバーである。これがおいしい。チープな清涼感と、はんぱなクリーミー感がなんだかいとおしいアイスである。。そして牧場しぼりとかMOWみたいにこってりしていないから、ぺろりといける。少し思い出補正が入ってるのかもしれないけど、Skyの緑と青のあのパッケージを思い出しただけでテンションが上がる。
今ではめったに売ってなくて、たまによくわからん地域密着型スーパーやコンビニで売っている程度。そのときは目の色変えて買い占めなければならない。
ていうか最近まったく見かけない。
山崎まさよし状態で血眼で探しても見つからない。
いったいどこで売っているのですか。
もぐなびというサイトで口コミを見てみました。
最後に購入されているのは2018年一月愛知県のスーパーにて。
いまだに製造終了のお知らせは出ていないので、全国各地で細々と売られているのでしょう。
上京してきて早三年。
都会にはなんでもあると思っていました。
でもSkyだけは見つからない。
あんな場所でSkyが売られていたよ、という情報をお持ちの方は教えていただけますと幸いです。