ニートにハーブティーは要らない

ニートにハーブティーは要らない

思ったことを書いています

覚醒・暴れメガネ★★★★★

 

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 朝、ゴミ出しをしたついでに近所を散歩していた。前住んでいたところと違い、ほどよく人がいてにぎわっており歩きがいがある。そのときのわたしは、筒みたいなまっすぐなワンピースにサンダル、家用にしているウディ・アレンみたいな変なメガネをかけた近所仕様だった。たまにそんな恰好でスーパーに行くと、不動産のひとが勧誘してきたりする。わたしとしては「よくこんな金のなさそうな人に声かけるな…」と思っている。

 

 そんなくたびれたマダムスタイルでなだらかな坂道をゆっくり下っていると、向こうから小さい男の子が母親に手をひかれて歩いてくる。嬉しそうに母親の方を見上げ、あれがあるよこれがあるよと報告しているようだ。電柱やコンビニを指さしては、何事かを元気にしゃべっている。母親もやわらかい笑顔で見おろしている。幸せそうな、ほほえましい親子だ。

 

 親子とわたしがすれ違う直前、男の子がニコッと笑ってこちらを見た。わたしも思わず癒され、あら何かしらと微笑んでそちらを見た。

 そして男の子が言った。

 

「暴れメガネ」

 

 え、何ですか?パードゥン??パードゥンパードゥンパードゥン???

 

 それも母親への報告だったようだ。おそらく視界に入れたものを全部言葉にして報告しているのだ。だとすればこのわたしは「暴れメガネ」で間違いない。一瞬でもほほえましい親子だと思って和んだのが間違いだった。

 

 たしかにメガネはかけている。悪いか。近所に出るときくらいコンタクトじゃなくてもいいだろう。しかし「暴れ」とは何だ。すれ違うその刹那に、どんだけ人の内面に踏み込んでくるんだ。何、本人も自覚していない潜在的な特性に言及してくれてるんだ。わたしのどこが暴れてるんだ。わたしの何がわかる。いや、この日を待っていた気がする。ずっと自分の置かれた居場所に違和感を感じてきた。メガネをかけると、その重みとともに自分のなかの抑えきれない凶暴な衝動が湧きあがるのをどこかで感じていた。いま、その力を開放するときなのかもしれない。

謎の透視能力をもった少年に、すれ違いざまに名づけられたわたしはそのとき「暴れメガネ」として覚醒した。このメガネの中に、もうあなたは映らない。もう誰も、わたしを止められない・・・。

 

  こんな妄想をしながら家まで歩いた。

 

 鏡に映ったわたしはやつれメガネで、まったく迫力がなかった。そして男の子は「暴れメガネ」ではなく「アラレメガネ」と言ったのだと気が付いた。

 

 

 

 

 

昔ながらの銭湯って、番台から裸丸見えなんですね

超絶レトロな銭湯、太平館

今日は兄が「下町のレトロな銭湯に行きたい。アッツアツの黒湯がいい。」と言ったので、少しだけ足をのばして太平館に行ってきた。

 

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k-o-i.jp

 

いや、本当に昭和で時止まってた。

 

まず玄関で靴を脱ぎ、木札を抜き差しするタイプの靴箱にいれる。

 

すると、そこですでに男女ふたまたに別れ、両サイドから番台に接することとなる。大人ひとり470円。そっけなくお金のやり取りをしてくれる眠そうなじいさん。「まいど」と言われ、一歩足を踏み入れる。

 

さて、脱衣所はどこでしょうとあたりを見回すと

 

そこはすでに脱衣所であった。

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番台のもとから歩くこと一秒、もうそこは脱衣所であった。番台からはもちろんがっつり丸見えである。じいさんはほぼ寝ているような、究極の省エネ状態にあったけど、それにしてもちょっと気になってしまう。

 

「え???」と思って立ち止まっていると、後ろから来た婆さんがザッと豪快に服を脱ぎ始めた。負けてられるか、ということでわたしもバッと服を脱いだ。何十年も銭湯を守り続けている番台にとって、裸体など塵ほこりのようなものだろう。

 

思いがけない昭和の洗礼を受け、ひとつ大人になった。

 

そしてお風呂も昭和そのものだった。

 

まずもってシャワーの湯がとんでもなく熱い。わたしは「ダァァ!アツッ」と叫びながら、わしわしと髪を洗った。横ではどこかのおしゃまなガキんちょがケケケと笑っていた。途中からは「ケロリン」と書いた風呂おけで、水と湯をちょうどいい塩梅でブレンドして溜めて、それで体や頭を流していた。「なんて玄人向けなんだッ…」と興奮しながら、体を熱湯で赤くしつつ洗い終えた。

 

そして肝心の湯。

 

どす黒かった。魔女が煮立てているせんじ薬のような液体が、ぶくぶくと泡を立てている。すこし面食らうけど、銭湯好きの間では評判の名湯らしい。

 

片足を突っ込むと、Wow、アッツい。

ゆっくり茹で上がって身がほくほくになりそうなアツさ。

 

隣で小さいガキんちょも平気そうにつかっているので、なんとなく意地になってつかる。しかし肩までつかると慣れてくるもんで、気持ちよくなってくる。内側から身体が温まって、肩甲骨あたりの張った感じも和らいだ。この黒い湯、おそらく肌にめちゃんこいい。少しざらついていた二の腕がすべすべしてきた。

 

隣は銭湯の定番、ジェットバス。絶妙にツボを刺激してくる。足の裏、ふくらはぎの裏、腰の下の方、肩甲骨の埋まりがちな部分。それらに勢いよく湯が押し当てられる。思わず「あぁ~~」と声が出る。ガキんちょもなぜか真似して隣に来る。

 

しかし毎回疑問なんだけど、なんでこのジェットバスはこんなに身体がかゆくなるんだ。血行がよくなるから?角質が落ちるから?とにかくわからないが、このジェットバス痒い問題は、あきらかに回転率に貢献している。どんなに好きでも長時間はできない。

 

ああもう死ぬというとことまで湯につかり、ケロリンに溜めた水を頭からかぶる。

 

ッカァ~~~~~~!!!!!

 

最高に気持ちいい。これをするために生まれて来たんだろうかと思う。

 

風呂を上がると、びっくりするほどレトロな道具たちが出迎える。最初は番台から丸見えなことに気をとられていたけど、一回10円のツボ押しマッサージとか、えんじ色のけんすいをやる器具とか、パーマかけるときみたいな髪乾かし機(おかまドライヤーと呼ぶそうです)とか、とにかくすごい。ガキんちょと競い合うようにして懸垂をしてきた。わたしはこのあとビールを飲むんだぞと心のなかでガキんちょに自慢する。

 

髪もろくにかわかさずに番台のじいさんに「どうも」と言って外に出ると、風が優しい。兄はシャンプーを忘れ、30円で花王のホワイト石鹸を買って頭からつま先まで洗ったらしい。それもまた銭湯。

 

外に出ると、さっきの空間はいったい何だったんだと不思議な心持ち。

 

変わらずにあってほしい、昭和の名湯太平館。

 

 

 

Nissyこと西島隆弘さんの黒い乳首を前にしながら、クレープを粛々と売るお姉さん

ある日、渋谷駅が茶褐色だった。よく見るとそれはNissyの裸体だった。

 

 

特別付録DVD付 anan (アンアン)2018/08/15・22 No.2114[愛とSEX]

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いつも何かしらの広告がジャックしている、渋谷ちかみちの柱群。

 

その日はAAAのNissyがanan「SEX特集」で見せたヌードが一面を飾っていたのだ。大樹のような柱が、ものすごく近い感覚で並んでいて、そこにはNissyのあんな姿やこんな姿が映し出されている。暴力的なセクシーゲリラ。

 

麗しい外国人女性に今まさにKissしようとするNissyのぽってりとしたコーヒー豆のような唇、茶褐色に焼けた肌、女性と絡みながらもなやましげにこちらを見据えてくる眼差し、あるかなきかのわき毛。なんの心構えもない状態で、いきなりセクシー写真を目の前バーンと差し出されてしまい、どんな顔でそこを通ればいいのかと戸惑ってしまった。

 

とっさに「あっ、すみません」と思った。

強制的に見せられているにも関わらず、なんかすんませんという気持ちになった。

ほかの人も微妙に心をかき乱されているのか、いつもの雑踏がすこしだけランダムな動きをしているように思えた。まるでコソ泥のような速さで、写真を撮影している妙齢のマダムもいた。

 

Nissyのヌードは地下道に燦然と輝き、道行く人々の心の中にほんの少しのうしろめたさを植え付けていた。

 

何よりうしろめたさを刺激しているのは、Nissyの茶褐色の身体にぽつねんと出現している、真っ黒な乳首であった。

 

男性の乳首はそもそも「見えていいもの」として取り扱われている。男性が上半身裸でうろうろしていても、あまり気にならない。しかしそれは乳首が存在感を放たない場合である。通常男性の乳首は「あってないようなもの」として扱われている。だからわたしたちは男性が上半身裸でいても乳首を注視することもないし、なんらうしろめたい気持ちを抱くこともない。

 

しかしNissyのそれは強烈な違和感を放ち、ブラックホールのようにわたしたちの視線を吸い寄せた。そしていくばくかのうしろめたさと、「み、見てねぇし!」という誰にするでもない無意味な弁解と、「もう一度見たい、いやダメだ」という謎の葛藤をもたらした。

 

Nissyの黒い乳首を見るまいと視線をそらした先に、クレープ屋があった。コロッとした形に丸めたクレープを売っているあの店である。その店は柱群のど真ん中、Nissyの茶褐色に取り囲まれていた。

 

お姉さんは虚無を見つめながら、クレープを売っていた。彼女はもうすでにNissyの裸体に関してベテランになっていた。

 

そのまなざしが黒い乳首に惑わされることはない。

お姉さんは朝から晩まで、粛々とクレープを売り続けていたのだ。

Nissyの茶褐色に抱かれながら。

 

さくらももこの親子観について

さくらももこのエッセイ 『そういうふうにできている』

「そういうふうにできている さくらももこ」の画像検索結果

 

 さくらももこが亡くなった。まるちゃんよりエッセイが好きだった。ブログを読んでいると結構そういう人がいて、なんとなくみんな文章がさくらももこっぽいから微笑ましくなってしまう。わたしもちょっと真似しているところがあるかもしれない。

 

 さくらももこのエッセイは、最初はひーひー笑いながら読んでいたけど、すこし嫌になってしまった時期があった。なんだか文章から漂う庶民的なみみっちさや僻みっぽさが、同族嫌悪的な感情を刺激してくるので疲れてしまうのだ。それでも今こうして読み返すとやっぱりおもしろい。とくに『たいのおかしら』や『さるのこしかけ』が好きだ。この二冊では庶民的なみみっちさも僻みっぽさも、絶妙なスパイスになっていてカラッと笑える。

 

 笑えるエッセイ本は数あれど、本気で雷に打たれたような表現に出会った一冊がある。『そういうふうにできている』である。

 

そういうふうにできている (新潮文庫)

そういうふうにできている (新潮文庫)

 

 

親子ってなに?

 親子ってなんだろうと考えると止まらなくなる。親子について考えるとき、日本はとことん儒教的である。社会的に、親は敬うものであるとされている。親のほうでも「育ててやったんだから」と言ったり、親孝行を期待したりする。そこでは親はひとりの人間というよりは、「親」という大きな概念のようになっている。

 

「父の日」とか「母の日」に乗り気になれないのは、みんなが「父」とか「母」というなんだか大きな存在に対して一斉に感謝して品物を贈っているという状況が、なんだか異様だと思ってしまうからだ。

 

 わたしが母を好きで尊敬しているのは、「母」だからではなくて「ゆきこ」として生きてきたそういう人間だからだ。それはとても幸せなことなのだと思う。わたしがこの世にポンと産み落とされて、最初に育てる役割をした「ゆきこ」という人間とたまたま相性が良かったということだ。結局親子関係といっても、人間関係なのだと思う。

 

 逆にこの世には、親と限りなく相性が悪かったことにより、自分の生い立ちを呪いながら生きる人もいる。このような人たちが苦しいのは、「親は子を無条件に愛するものだ」ともっともらしく決めつけて言う人がいるからである。親も子も、ただの人間同士である。ただ子供の方が幼いうちは身体も知能も未発達で、社会的にも成熟しようがないので親に環境を整えてもらう必要があるというだけである。そういう役割を全うする親もいれば、子供に対して愛情がわかずに、すこしも世話をしない親もいる。もしくはそういう役割を過不足なく行うだけで、子供に対してさして愛情を抱いていない親だっている。

 

 「親」は子供にたいして無条件に惜しみなく愛情を与える大きな存在だと思われているが、実際の親はただの人間で、子供を愛したり愛さなかったりする気まぐれで不確かな存在なのである。

 

さくらももこの子供への考え方

 こんなふうに言うと、親子というものを悲観的に考えていると思われるかもしれない。でもそうは思っていない。さくらももこの言葉に出会ったからだ。何度読んでも、腑に落ちるのだ。

 

 『そういうふうにできている』は、さくらももこが初めて子供を妊娠、出産したときのあれやこれやをおもしろおかしく、ときに哲学的につづった名エッセイである。このときのさくらももこの文章に説得力があるのは、生まれて来た赤ちゃんを見るなり盲目的な愛情が大爆発するんじゃなく、至極冷静だからだ。 

 

 あわてながら、私は子供に対する自分の愛情というものについても冷静に観察していた。この子に対して、まだ愛情らしき感情がワッと湧き起こってこないのは単に私に余裕がないだけであろうか。

 

 私達は本能の中にプログラムされている種の存続という任務を忠実に遂行しているのだ。子供は誰から教わらなくとも乳を吸う手段を身につけており、私もこの生命を死守しようとしている。愛情とは違う。似ているが別モノだ。

 

 いわゆるマタニティハイとは無縁である。さくらももこは、この赤ちゃんが自分の体のなかから生まれて来た不思議を静かにみつめ、これからの自分と子の関係性について真剣に考えている。さくらももこは大きな存在である「親」になる気は全くなくて、初めから人間対人間として子供に接しようと思っていたのだ。

 

 さくらももこは子供が出てきた自分の身体のこともとくに特別なものだとは思っていないようだった。ただ、その子が地上に降り立つための通路に過ぎなかったと、そう言った。その子は母体の分身でもなんでもなく、一個の独立した魂をもつ存在であると言った。

 

もしかすると彼の魂は経験豊富で私より大人だったりするかもしれない。だがこの世では新参者だ。

 

”家族”という教室に”お腹”という通学路を通って転入生が来たようなものだ。遠い町から転入してきた彼を、クラスメイトの夫と私は歓迎し、今後仲良くしていこうと思う。彼が知らないことが教えてあげ、いろいろな体験を共にし楽しく過ごすであろう。お互いの絆は固く結ばれ、かけがえのないものになるとも思う。

 

だがお互いに一個の個体なのだ。

私は”親だから”という理由でこの小さな生命に対して特権的な圧力をかけたり不用意な言葉で傷つけたりするような事は決してしたくない。

 

 

 この考え方に、今でもずっと共感している。自分に子供が生まれる想像をたまにして不安になるけど、このさくらももこの言葉を思い出すととても気持ちが楽になる。母親のことが大嫌いだったあの娘も、この部分を読んでもらったら「ほんとうにその通りだね」って言っていた。人の考え方は変わりやすいものだから、さくらももこさんが最期までこんな気持ちでいたかはわからないけど、この言葉はたくさんの人の心を救うと思う。

 

日を追って、子供との絆は深まり、もっともっとかけがえのない存在になる事は確実に予想されるが、それぞれの個体は各人のものでしかないという”距離”はこのままであると思われる。もっともその距離は、”オナラのできる間柄”であるという非常に近い距離であろうが。

 

 わたしがおならをすると、空気清浄機より先に母のゆきこは「ン???」と言う。わたしもまたオナラのできる間柄のもとで、クラスメイトのような親にいろんなことを教わってきた。

 

 たまには感謝を伝えたくて、まったく「母の日」でない日にゆきこに口紅を買って帰省した。母の日だよと渡すと、ぱぱぱっと口紅を塗って「ゆきこ、こんな良い口紅はじめて~」とバレエもどきの変なダンスを踊った。この自分のことを「お母さん」ではなくて「ゆきこ」と呼ぶのがうちの母の奇妙なところであり、個性である。

 

 そんな母に、正しく感謝して向き合えたのはさくらももこの言葉のおかげだと思っている。

 

 ご冥福をお祈りします。

 

 

 

一人称がない男と付き合っている

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 わたしの恋人には一人称というものがない。正確には「僕」と呼ぶはずなのだけど、めったに言わないので、ないようなものだ。そもそもが無口なので、言語そのものをあまり口にしないのだけど、一人称に関しては言うのを巧みに避けるようにして暮らしている。

 

 そのことには付き合う前から気がついていた。

 食事に行くようになって二回目くらいのときに、「一人称ないでしょ?」と聞いたら「よく気がついたね」と言った。

 

「なぜ?」

「僕も俺もなんか違う気がして恥ずかしい。」

「不便じゃない?」

「やや不便」

「このピザは誰が頼んだのさ」

「……(小さく手を挙げる)」

 

 たしかこんな感じの会話をした。不便さを感じながらも、「僕」や「俺」を使うのが恥ずかしいからと言って、ほとんど一度も口にせずに20年間くらい生きてきた男がいるのだ。わたしは驚いた。

 

 人はおのずと自分にあった一人称を選び取っていく。

 俺、僕、わたし、あたし(主にaiko)、ウチ(misono)、わたくし、わっち、小生(インターネット上でのみ、中高年男性が使用する)、わし、あたい、おいどん、おら、わちき(椎名林檎もしくは石川さゆり)。

 

 一人称の選択を左右するのは、「他人からどう思われたいか」という観点だ。常識的な人だと思われたいか、男らしい人だと思われたいか、ちょっとおてんばな感じだと思われたいか。一人称を使うということは「オレは、自分のことオレって呼ぶタイプの人間だと思われたいでーす!!!!」とアピールするようなものだ。言い過ぎか。

 

 どうやら彼は一人称を使うということは「他人からどう思われたいか」を明かすことだと考えていて、それがなんか恥ずかしいようだった。こんなに面倒くさい男がいるものか。恥の多さは感受性の強さでもあるだろうけど、このひとはちょっと恥じらいすぎている。

 

 男の一人称はだいたい「俺」か「僕」である。彼はそのいずれにもためらいを見せている。

 

「俺」はなんだか強引そうな感じで、自分には明らかに似合わないと言った。

 

 そう、彼はかなり「僕」寄りのルックスをしている。ひょろながい身体に、シマウマみたいな優しそうな顔がちょこんと置かれているような感じだ。服装は無印良品(本人いわくMUJILABO)かアーバンリサーチのこれでもかというくらい「ふつう」な服を着ている。まちがっても妙な位置にスタッズが付いていたり、Tシャツが絞り染めだったり、Vネックが深かったりしない。星野源のスタイリストにでもなればいいのにと思う。

 ルックスだけでない。言葉遣い、物腰も明らかに「僕」寄りである。クソとかバカとか言うのを聞いたことがない。いつもゆっくりと丁寧に話す。ちょっと個人的に気になっているのは「むずかしい」をわざわざ「むつかしい」、「あそこ」を「あすこ」と言うところだ。まあ別に間違ってはないんだけど、江戸川乱歩の少年探偵団かよと思ってしまう。「それ気になる」と2回くらい言ったが、治す気はないようだ。

 

 とにかくここまで「僕」寄りなんだから、「僕」にすれば良いじゃないかと思うだろう。しかし彼の恥の意識をなめてはいけない。ここまで「僕」寄りでいて、マジで一人称を「僕」にするのは逆に恥ずかしいというのだ。「なんだかあざといんじゃないか」と余計な心配をしているようだった。彼のやや弱気なルックスとファッション、ソフトな物腰が、「僕」という一人称を使うことによって、なんだか演出じみてしまうと思っているのだろう。

 

 しかしどう考えても「俺」なタイプではないので、一緒に話し合った結果「僕」にしようとなった。そして二人で会話をするときは「僕」を使う練習の場にしましょうと約束した。

 

 そこからわたしは

 

「で、誰がやったの?」

「誰の血液型がB型なの?」

「わたし今誰と話してるの?」

 

と足を組みながら鋭い言葉で追及する、怖い女になった。彼が自分のことを「僕」と呼ぶのを聞きたいというだけなのに、妙にノッてしまって怖い女になった。

 

 それに彼が真っ赤になりながら

 

「アッ…、ぼ、僕…」

 

と返すたびに謎の高揚感が生まれた。

 

 なぜかいけないことをしているかのような気分になった。この一人称プレイとも言えそうな状況にハマってしまって、なんだかんだと会ううちに付き合うことになった。

 

 あれから月日が流れ、最近は二人ともたるんでいる。彼は「僕」と言うのを避けるように暮らしている。

 

 かなりご無沙汰になった一人称プレイを再開しようかと思っている。

 

 

 

 

 

主人公の男が好きな女の前でゴリラの物真似をする小説を探している

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ずっと気になっている。

高校の現代文のテストに出てきた小説なんだけど、なんともいえない暗さとやけっぱちのユーモアが両立しているような文章だった。

 

もう細かいことはほとんど覚えていないんだけど、大まかに書き残しておこう。

 

 

まず主人公の男と、相手の女は文通で知り合った。

実際に面会してみたところ、まことに姿のいい女だった。しかも知的で品があって、男はすぐに惚れた。そしてデートにこぎつけて二人は動物園を訪れる。男の内面は劣等感の塊で、女を自分のものにしたいと渇望しながらも、どうせいつか気持ちが醒めて幻滅されるくらいなら今ここでどうにかなってしまいたいという自暴自棄な衝動を抱えている。そしてゴリラを目の前にして、やけっぱちのゴリラの物真似を披露する。男は、あさましく剽軽にふるまう自分をどこか冷静に見つめている。どろりとした自己嫌悪が湧き上がってくる。

 

 

こう書いてみるとめちゃくちゃである。曖昧な記憶をたどるとこんな感じだった。

 

そもそも現代文の問題だったから、小説のほんの一部分なのだろう。なにもつながりがない状態でこの意味不明の文章をぶっこむものだから、低得点が続出していた気がする。なぜ先生は高校生に、劣等感にまみれてゴリラの物真似を披露する男の心情を回答させようとしたのだろう。変な問題ばかり出す先生だったけど、チョイスが面白いので楽しみにはしていた。問題用紙をすぐ捨ててしまう癖が悔やまれる。

 

何度もグーグルで検索した。

「ゴリラ 物真似 小説」

「ゴリラ 物真似 劣等感 」

「文通 ゴリラ 小説」

 

たどり着くのは関係のないものばかり。

もしサイトの持ち主がグーグル解析などをして、「ゴリラ 物真似 劣等感」でたどり着いてる者がいると知ったら微妙な気持ちになるだろう。

 

とにかくどんなに調べても出てこない。もうあの小説には出会えないのだろうか。その先生に連絡を取れば一発なんだろうけど、それはなぜか死ぬほど嫌だ。

 

このブログを読んでくださっている方のブログを覗きに行くと、なぜか本に詳しそうな人が多い。もし「主人公の男が好きな女の前でゴリラの物真似をする小説」をご存知でしたら、教えてください。お願いします。

 

 

 

田舎のお祖母ちゃんがearth music&ecologyで服を買い始めた

後期高齢者   meets   earth music&ecology

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 タイトル通りである。 earth music&ecologyの年齢層が大きく変わり始めている。

 

 母から電話がかかってきて「お祖母ちゃんがね…」と切り出されたとき、真っ先に「ああ、何か病気でも見つかっただろうか」と思った。

 

「どうかしたの?」と深刻なトーンで聞き返すと

 

「最近、earthなんちゃらで服買ってんのよ…」

「あのearth?」

「そう、あの。宮崎あおいの。」

 

 Oh…と思った。

 

 earth music&ecology(通称アース)にはわたしもお世話になったことがある。わたしが中学生の頃は、いかにも女の子という感じの服装がリーズナブルに手に入る店として人気を博していた。宮崎あおいが「ヒマラヤほどの!」と歌うCMが印象的だった。今はあまり趣味が合わなくなって着ないけれど、友達の服のタグに「earth music&ecology」と書いていてもナチュラルに受け入れる。

 

 しかし、それが祖母となるとさすがにスル―できない。

 

 祖母ちゃんは最初こそアースのことを、「イオンにある若者向けの安い店」と認識し自分には縁がないものだと思っていたそうだ。しかし一度退屈しのぎに足を踏み入れてからは、アースの虜になった。今ではイオンに行けば神速でアースの店舗に向かうらしい。膝が悪いのによくもまあ、という速さで向かうらしい。この間お祖母ちゃんに会ったとき、早速アースで買った服を自慢された。

 

 なぜそんなにもアースがお祖母ちゃんにヒットしたかというと、主な理由は三つである。

安い

 地元のイオンにあるアースは、慢性的にセール状態である。かなり高頻度で80パーセントオフなどをやっていて、価格崩壊している。お祖母ちゃんが初めてアースに足を踏み入れたときは、まさにスーパーセール中で店内商品最大50パーセントオフ、さらにレジにて20パーセントオフというイカれたお得具合だった。お祖母ちゃんはそのときの店内の祝祭ムードに踊らされ、一枚買ってみたところ案外着れるもんだからハマってしまったのだろう。

サイズ展開が豊富

 ここまで読んできて、わたしのお祖母ちゃんのことを、痩せてしわしわの弱々しい高齢者だと想像した人もいるかもしれない。しかしリアルお祖母ちゃんは、なんか太っててでかい。小さい頃「お祖母ちゃん金正日に似てる」って言ったら殴たれたっけ。そりゃ殴つわ。しかも好きな食べ物は、血のしたたるステーキである。帰省するたびに祖母が小さくなる、みたいな感傷がわたしには無い。

 そんなお祖母ちゃんでも着られる服が揃っているのがアース。Lサイズがまずまず本気でLサイズなうえに「大きいサイズ用」も作っているみたいで、これにはビッグなお祖母ちゃんもご満悦。「おらでも入るっすちゃ」とのこと。こちらもうれしい。入る服あってよかったね。

 

他の年寄りとかぶらない

 そう、まだアースに手を出している年寄りというのはとても少ない。他のおばあさんたちは、商店街にあるような「おしゃれ館ルモンド」みたいな名前のシニア向けブティックで買っているのだろうか。

 そこをうちのお祖母ちゃんはアースである。女学生が小遣い握りしめてセール品を物色している店内を闊歩し、年金で大人買いである。当然デザインは若い。よそのばあさんに「あらそれどこの?」と聞かれること請け合いである。

 

 

「祖母ちゃんすげえな」という驚きはいうまでもなく、「アースは大丈夫なのか?」という余計な心配がわき起こってきた。というのも、お祖母ちゃんはすでに周囲の年寄りにアースを流行らせつつあるのだ。

 

 お祖母ちゃんは近所の農作物が並ぶ産直センターで、なかば暇つぶし感覚で働いている。そこには似たようなおばあさんが集い、サロンと化している。お祖母ちゃんはアースという若者向けブランドの威光を借りて、そこのファッションリーダーになってしまった。「なんだかハイカラなもの着てる、どこのだ」と言われて教えたところ、「なるほど、安いし、楽な服多いし」ということで、アースが産直センターでにわかにブームを起こしているらしい。

 

 これはいかがなものか。このままではわたしたちの青春と共にあったアースが、「おしゃれ館ルモンド」になってしまう。

 

 そもそもアースは昔はかなりおしゃれ感度の高いストリートブランドだったこともあるらしい。

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https://goo.gl/images/xfh7c7

 こんなクールなロゴで、モデルの今宿麻美なんかが着てて、雑誌でいえばminiだったそう。これが森ガール路線になったときは、ストリートガールズが悲鳴を上げたらしい。

 

 これが今、めぐりめぐって「おしゃれ館ルモンド」になろうとしているのである。

 

 おいおい大丈夫かアースと思って、ホームページを覗きに行ってみた。

 

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www.earth1999.jp

 

「若さなんて、転がる石よ。」

 

 アースはすでに、覚悟が決まってたみたいです。

 

 

 

 

お盆のバーベキュー大会に気合いを入れるガン患者

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うちの親戚は、お盆に盛大なバーベキュー大会を開催する。この不謹慎スレスレのイベントの中心になっているのが、マサおじさん(70)である。

 

マサおじさん(70)と書くと、田舎に帰省するたびになんだかちっちゃくなっていく、人の良いじいさんという感じがするだろう。

 

しかし実際のマサおじさんは斜め上を行く

体重が120キロある。上背もあるが、相当なボリュームで、アメリカのウォルマートにいる人みたいな太り方をしている。そして、よその子供に「あ、太った人がいる~」と指さされるとマジで睨むというファンキーな高齢者である。

 

しかし、マサおじさんは自分の顔見知りにはたいそう面倒見がよく、慕われている。中学生の頃の恩師を進んで介護するほどである。おもてなしの心が尋常ではないのだ。リアルクッキングパパでもあり、揚げ物も煮物もなんでも作る。以前にマサおじさん宅に泊まったとき、朝からとんでもない量のアメリカンなごちそうを用意され、交換留学にでも来た気分になった。

 

盆のバーベキューはマサおじさんが、一年で最も気合いを入れるおもてなしイベントである。親戚が集まって、先祖のために線香をあげ、そのあとは肉を囲んで歓談する。おじさんはいつもそのにぎわいの中心で、巨体を揺らしながらおもてなしのために奔走している。そしてバカでかいカメラでシャッターを切りまくり、それをすべて現像して後日に配って回るというマメさもある。このおじさんのエネルギーはどこで醸成されているのか。本当に凄い人だなあと思う。

 

さっきそのバーベキュー大会から帰ってきた。例年通り気合いが入っていた。

 

わたしは帰省前から、母伝いに「お前に最高の厚切り牛タンを食わせる」という熱い宣告を繰り返しいただき、本日めでたくその厚切り牛タンを食べてきた。マサおじさんがネットで大量に注文したその厚切り牛タンは、明らかに良い部位だった。舌の根の方の脂ののったところだった。「これ良いとこでしょ、利久より旨いわ!!」と興奮気味に言うと、マサおじさんは会心の笑みをこぼした。この人はこういうことが生きがいなのだと、マサおじさんの娘たちが言った。

 

クーラーボックスには大量の冷えたビール、ウーロン茶、ジュースが用意されていた。カルビやら、焼き鳥やら、エビやホタテ、とうもろこし、川魚まで半端でない量の具材がこしらえられていた。それをあーだこーだ言いながらみんなで焼き、ビールをぐびぐび飲み、宴は盛り上がった。マサおじさんはその中心で満足そうに笑っていたが、体の大きさのわりにあまり食べなかった。

 

おじさんは今ガンなのである。これは数年前からで、全身にぽつぽつとガンが出来るのを、その都度治している。マサおじさんの体力は驚異的で、幾度の厳しい治療をクリアしてきたから、今もこうして元気でいる。しかし最近になって、リンパが腫れてきたとかで、体調が悪い日が多いようだ。今日も少し顔色が悪かった。それでも今までと変わりなく周りの世話を焼き、大量の料理を作り、おもてなしをしている。そしてなぜか相変わらず太っている。それがマサおじさんの生き方なようだ。

 

「もうすぐ死ぬ!!!(絶叫)」とか「まだ生きておりますがどうもどうも」という言葉が、ジョークになってしまうマサおじさん。みんな本当はそれがジョークでもなんでもない事を知っている。おじさんは多分もう本当に長くない。でもうちの親戚はみんなでそれを笑う。それでいいのだと思う。

 

今日マサおじさんが気合いを入れてごちそうしてくれた、厚切り牛タンの味を忘れないようにしようと思う。