今ごろ自分の家が燃えているんじゃないかと思う
夜、自宅までの坂道を登っていると、背後からサイレンの音が追いかけてきてどんどん大きくなったかと思えば、3台ほどの消防車が立て続けにわたしを追い越した。音はゆがみながら遠ざかり、そのままわたしの家と同じ方向に消えていった。
「わたしの家燃えてんじゃないかな」
鼻先にじりじりと燃え残った焦げのような匂いがする気がするけど、それが火事のせいなのか夏の始まりのせいなのかはわからない。朝、めずらしくヘアアイロンを使った。時間もなかったのになぜか炒め物も作った。濡れた手でコードを触った。隣の部屋の老人がタバコを吸ってるのを見た。アパートの周囲は植え込みに囲まれている。すぐにあの築40年の木造アパートは炎に包まれるだろう。家を出る前に見た全てのことが伏線のように思われ、疑惑は確信に変わる。
「燃えてんなこれ」
こういうときにわたしは、ちびまる子ちゃんの永沢君を思い出す。たまねぎ頭に特製サイズの帽子をのせ、他の子供たちの無邪気な放言に陰鬱でひねくれた横槍を入れる彼は、重く悲しい過去を背負っている。
彼は火事で家を失った。家族と過ごした大切な家、思い出の品が燃えているのに、瞳に炎を映して立ち尽くすしかなかった永沢君。彼は他の子供たちよりずっと早くずっと深く、世の儚さを知ることになる。
残酷なのは、クラスメートだ。独善的な学級委員長の丸尾がいきり立ち、「永沢君をはげます会」を強引に開催する。はまじなんて「新聞に載ってよかったじゃん」など、(ギャン!)と効果音がつきそうなほどむごい言葉を浴びせる。皆が引きつった笑顔で永沢くんに順番に励ましの声をかけおわったあと、わたしの中ではちびまる子ちゃんで嫌いなキャラトップ8には入る丸尾が再び無神経なことを言う。
丸尾「どうですか永沢君、少しは元気になりましたか!?」
もう何も言うなよ。一生そうやって、他人の気持ちを想像できないまま生きていくんだろうな、おまえは。ある意味楽だよな、そういうのって。ちっともうらやましくないけどさ。何が「はげます会」だよ。おまえに永沢の何がわかるんだよ。
瞳に怒りの炎を宿しながら、結局全然燃えてなかった自宅アパートのドアノブに手をかける。サイレンの音はもう随分遠くで鳴っている。
「みんなはいいよな……火事にならなかったんだから……」
永沢君の声が背後から聞こえる気がする。
ヨコハマ・日雇い・メモリー
どうでもいいことばかりやたら記憶に残るというのは本当によくあることである。ついでにちょっと教えてあげるけど、ナジャ・グランディーバは普段はだいたいハンバーグなどを食べているようだ。なんかの番組で言ってた。
そんなどうでもいい情報もそうだけど、ある一瞬の情景が、いわゆる「撮れなかった写真」のようなかたちで鮮烈に焼き付いて忘れられないというのもまたよくあることである。そのときの嗅覚・触覚・聴覚あらゆる感覚と結びついて、いよいよその情景は走馬灯に出てきそうなくらいメモリーに刻まれ、ときにかたちを変えて夢にまで現れてしまうなどする。そしてその情景は人生を決定的に方向付けるものでもなければ、何か心に強いダメージや感動をもたらすものでないことも多く、「ほんとなんで?」としか言いようのない無価値な情景なのである。
学生最後の春休み、わたしは本当にお金がなかった。貧乏トークを楽しんでいた上京友達はなぜかヨーロッパ周遊に出かけ、富裕層の友達は相変わらず留学しまくって卒業が遅れていて、彼氏のTはオーダーメイドのスーツを注文していた。物欲も旅行欲も薄いわたしは、日頃居酒屋などだらしない消費に走りがちなせいで残るモノも少なければ残高も少なく、時間だけは有り余っていて、近所の公園で梅の花を見ながら歌を口ずさんだり、お菓子を焼いて全部自分で食べて罪悪感で胸を重くしたりしていた。
そんなふうに過ごしていても残高は減るもので、Tと行く予定だった台湾格安ツアーに行けるかどうかも怪しくなってしまい、急きょバイトをすることにした。とはいえ、すでに3月に入っており新しいバイトを始めるにしても無理があった。そうして必然的に、いわゆる「日雇い」と呼ばれる仕事をやることになった。
登録を終えてやってきたのは、横浜の倉庫街。
あれほど憧れた海の前には、無機質で広大な倉庫が立ちふさがっていて、どこまで行っても景観はグレーである。だだっ広いまっすぐな道の脇には、手入れされていない植え込みが続いている。その植え込みがわずかに途切れている場所があり、そこには粗末なステップが設けられている。わたしはそれを上り、倉庫の敷地内に入る。
そこは某大手企業の食品倉庫。受付で名前と団体名を告げ、ひどくぞんざいに入館証を手渡されて控室に入る。控室は畳が敷かれていて、今時珍しい分厚いテレビが中央に鎮座し、作業着の男女が顔にタオルをかけて雑魚寝している。部屋全体が日焼けして、セピア色に見える。わたしは長机の隅に陣取り、持参したコンビニのコーンパンをかじった。壁にもたれかかって眠っているのは、顔中にやけどを負いかさぶたのようになった高齢の男。死んだ目で宙を見つめている40代ぐらいの男は、何日も髪を洗っていないようで脂ぎっている。赤茶けたほうきのような髪の老女が、コップつきの水筒で茶をすすっている。その中でわたしは胸をざわめかせ、勤務が始まるのを待った。
時間になり、周囲の人たちが動きはじめたのでわたしもそれに続いた。まずはヘルメットをかぶるらしい。同じヘルメットを使いまわしているので、中に頭の形のような紙を敷く。そしてラバー付きの軍手とカッターをもって勤務フロアに降りる。
「軽作業」という言葉の嘘を知っている人も多いだろう。わたしも事前にネットでいろいろ調べたので知ってはいた。「軽作業」という名目で、ピッキング作業(納品する前に倉庫から商品を取りだして所定の位置まで運ぶこと)に駆り出され、予想以上の重労働に音を上げる人が多いのである。
わたしが派遣された現場も、まさにそれだった。食品倉庫とはいえ、運ぶ段ボールの数は膨大で、持ち上げるたびにフンッと鼻息が漏れる程度には重い。煩わしくなって軍手を取って運んでいたら、段ボールで脂気を奪われ乾いた手のひらが切れて、わずかに血がにじむ。平べったい、似たような無数の箱に囲まれて、ぼーっとする頭でひたすら数をかぞえ、所定の位置まで運ぶ。サイズの合わないヘルメットがあくせく動くわたしの頭の上で陽気にカパカパ動く。自分を俯瞰するもう一人の自分が現れ、カパカパのヘルメットを頭に乗せ、へこへこと段ボールを運ぶ中肉中背の女を脳内スクリーンに映し出してくれる。思わずちょっと笑ってしまう。
男性陣は慣れたもので、先ほど休憩室で死んだ目をしていた男はテキパキと働き、わたしにもいろいろ教えてくれた。その合間に「昔はこれでも結婚していたんだぜ」とか「最近は派遣会社も仕事をくれなくてどう生きていけばいいかわからんね」などと身の上話をしてきた。
一度目の休憩のとき、その男が派遣会社に電話していた。「なんで仕事入れてくれないんですか。女性ばっかり優先するんですか。」わたしも思わず死んだ目になった。
しかし、倉庫の社員が日雇い派遣のもとにやって来て1000円札を取り出し「これでジュースでも飲んで!」と声を掛けると、男はにわかに表情をほころばせた。「おれモンスターエナジーにしーちゃおっと」と言いながら、自販機で一番高いモンスターエナジーを購入し、いい喉音を鳴らしながら飲んでいた。
休憩後、再びわたしは段ボール運び人形と化した。そして今度は別の男が身の上話をしにやって来た。倉庫の社員の男性だった。浅黒く痩せた肌には皺が寄っていて、父と同じくらいの年齢のようだ。一見眼光が鋭く、近寄りがたい印象だが、話してみると声音も優しくフレンドリーな人だった。フォークリフトにのった若いヤンキー風の男が通り過ぎざまに「●●さん、女には優しいなあ」と言いながらまた風のように去っていく。●●さんは「ばーろーめい」と返事をし、再びわたしに身の上話をする。
「俺さ、こう見えて嫁さんは若いの。なんとね、28歳。驚いた?驚くでしょ?」
「俺さ、子供だっていてさ、全部女の子。みんなもうおませさん。猫ちゃんも飼ってるよ。」
「最近三味線習い始めたんだよ。和楽器バンドだっけ?あれ見てなんか感動してさ。」
おじさんは矢継ぎ早に自慢をしてくる。先ほどの男よりもはるかにポジティブな内容ではあるが、慣れない重労働で判断力を失っているわたしにはどちらも似たようなものに思われた。相槌だけは上手なわたしはぼやぼやした肯定の言葉でおじさんの自慢を無限に引き出していった。
休むことなく口を動かし続けるおじさんと一緒に、恐ろしく重くて巨大な段ボールを運んだ。暗鬱な倉庫の中の空気を重い足取りで進んだ。運んでいると突然パッと視界が開けた。
そこは横浜の青い海。春の日差しを浴びてキラキラと光り、その光はベイブリッジや倉庫、トラックにも反射して、一面がオパールを砕いた粉をちりばめたようで、目が焼けそうだった。そんな光の情景が、真四角に切り取られてわたしの前に突然現れた。
光に包まれながらおじさんはまだ自慢を続けていた。
「最近給料も上がっちゃってさぁ、もうおじさんで体力なくなってるのに申し訳ないよねえ。」
どうでもいいがこのとき、おじさんの八重歯が抜けていることに気が付いた。
なぜかはわからないが、この場面をわたしは一生憶えているだろうなと思った。美しい景色に目を焼かれ、おじさんの自慢に耳をひらき、重労働で体じゅうの筋肉がキリキリ痛んでいたあの身体感覚とともに今でも鮮明に思い出すことができる。
卒業・くすんだブルーのワンピース・会社員
2019年3月26日に大学を卒業し、4月から都内で会社員になった。毎日通勤したり、先輩からこぼれ仕事をもらいながらいろいろやったり、デスクで壁と向かい合いながらお弁当を食べたりしていると、つい2、3週間くらいまえには卒業式のあとの謝恩会に何を着ていこうかわくわくしていたのがクラクラするくらい遠く感じる。ホテルでやるわけでもなく、きっちりしたドレスコードがあるわけでもなく、しかしれっきとしたパーティーであるという微妙なシチュエーションを、新しいハレ着を買う口実にしたかったのだ。
結局、くすんだブルーの総レースワンピースを選んだ。
卒業式のあとはあわただしく写真を撮って(親と)(!!!)、Tと一緒にタクシーに乗って大学に行き、あきらかに植毛して髪の毛が増えた学部長から学位記をもらい、ゼミの人たちと集合写真を撮り、また重い荷物を引いて汗をかきながらアパートに戻った。
袴で締め付けられたおなかの部分があせもになっていた。シャワーを浴びてガチガチにセットされた髪を流し、アイリスの匂いのボディクリームを塗り、適当に髪を乾かして化粧をした。化粧下地からも何か濃厚な花の匂いがした。ファンデーションからは「粉」としか言いようのない匂いがする。こうして謎の香気を放つミセスやマダムが仕上がるのである。
そしてデパートのヤングフロアで買った、くすんだブルーのワンピースに袖を通した頃には、謝恩会に間に合う時間を過ぎていた。でも脳も身体もだるくて、「まあいいや」とワンピースを着たまま部屋の中を徘徊し、怠惰な魚のようだった。ひざ下まであるレースの裾がちゃぶ台に引っかかるなどした。
ふと我に帰って「ふつうに家出なきゃやばいな」と思い、かっちりした小さなマスタード色のバッグにこれまたかっちりした小さなマスタード色の二つ折り革財布を入れて、コートに口紅だけ突っ込んで家を出た。
このとき人生ではじめて、「これで社会に出ることが出来るのか?」といううっすらした不安を覚えた。
そんな不安も、オレンジ色の電車に揺られるうちに溶けるように消えていった。不安や憂鬱には2種類あって、一過性のものと、一度陥ればなかなか脱することのできない迷宮のようなものがあるということをこれまでの短い人生から学んだ。これは一過性のやつだなとはじめから見当がついていたので、わりに呑気なものだった。
主催の友達にお詫びのLINEを入れ、指定されたビルのエレベーターに乗り、27階ボタンを押した。エントランスで団体名を告げて、部屋に入ると同級生たちがドレスやスーツやふつうの服を着てやはり魚のように各々漂っていた。皿に肉やピラフを盛り付けて、白ワインを飲みながら女友達と話しているうちになんとなく薄ら寂しいような気持ちになった。
謝恩会の中盤、わたしはなぜかゼミの教授にバラの花を一輪渡す係を任ぜられ、遂行した。いつもネイビーの服を着ている教授のためにみんなで事前にネイビーのTシャツを買っていたので、それも一緒に渡した。教授はユナイテッドアローズの紙袋とバラを持って、口をゆがませながら嬉しいんだか微妙なんだかよくわからない顔をしていた。わたしはそれを見ながら、「胸ポケットからハンカチーフなんぞ覗かせやがって」と思っていた。
その後は「先生たちから一言」のコーナーがあり、あとはなんとなくゼミごとに歓談した。ゼミはドライ人間の集まりなので、とくに湿っぽい感じもなくて良かった。
「20時完全撤収でーす!!!」という主催の声が響きわたると、みんなうろうろとコートや荷物を回収しはじめた。ざわめきの中で、背の高い短髪の男子が「あの」と話しかけてきた。彼はわたしを頭からつま先までサッと見ると、言葉を何回かつっかえさせながら言った。
「1年生のときに授業で話してから印象に残ってました」
彼のほっぺたはピクピク痙攣して、1度も目を合わせなかった。1年生のときはもっとクールではきはきした子だったと記憶している。
お互いの進路について話すと、彼は「就職にめちゃくちゃ失敗した」「これからが不安」という旨のことを言った。なんとなく、彼が少し変わった理由の一部がわかった気がした。
ずっと目を伏せているので、「なんとかなるでしょ」と言ってみたら、自分で思ったよりも大きな声が出た。彼は少し笑った。
そのあとはゼミの人と串カツ田中に行った。ワンピースは串カツ田中にもよく馴染んで、「気さくなワンピースだな」と思った。
千鳥足で家に帰って、何もしない廃人のような1週間を過ごして、入社式も何もなく会社員になった。
ワードローブには、くすんだブルーのワンピースが吊されている。
クリーニングはしたけど、なんだか謝恩会と串カツ田中の匂いがするような気がする。そしてあの彼のぎこちない笑顔が思い出される。
彼は何回ぐらいひとりで部屋で泣いただろうか。もしくは泣けないくらい暗鬱な気分になっただろうか。これから何回もそういう気分になるんだろうけど、精錬される鉄のようにはなれないんだろうなと思う。こういうふうに思っているわたしが「なんとかなるでしょ」と言ったって説得力はないのだけど、あのときはそういう感じがしたんだからしょうがない。くすんだブルー、なんかそういう色だよなと思う。
慌ただしく過ごす毎日の中で、くすんだブルーのワンピースは再び出番を待っている。
地に足つけて生きている人間の言葉にはドライヴ感がある
地に足つけて生きている人間の言葉には、ドライヴ感がある。
一見それは意味不明の言葉であっても、たしかな重量をもったカウンターパンチとして身体に響いてくる。
小さい頃は、よく喫茶店に預けられていた。祖父が自宅の一部を改造してやっていた喫茶店である。国語と美術の教師を長くつとめた祖父が、自分が好きな音楽をかけ、好きな詩集や雑貨を置き、のんびり時間をつぶすために作った店だった。なぜか店中にこけしを飾っていた。生真面目な祖父は、コーヒー豆屋から教わった方法を杓子定規に守って、抽出時間も一分一秒違わないように、サイフォンに一滴も水気がないようにふき取ってから、親の仇のように一杯のコーヒーを淹れていた。それ故、大して品質の良い豆を使っているわけではなかっただろうに、そこそこ美味いコーヒーだったらしい。
しかしわたしはコーヒーなんて飲まず、バナナパフェを作ってもらって、店の隅っこで宿題をやっていた。
すると、祖父のお仲間たちが続々とやってくる。地元の詩人、ジャズシンガー、画家、「あえて」こんなド田舎に住んでいるような人たち。たまに宗教家。「何か」を「あえて」田舎で発信しているような人たち。
彼らは何かハイコンテクストな話題でつながり、了見でつながり、目くばせしあっている。この空間で共にいることで、何か高みに上っているかのような、要は何らかのカルチャーを解しているという優越の意識があった。
「マスターのお孫さん」ことわたしにも、彼らは話しかけてくれるが、いまいち何を言っているのかわからない。わたしは坂本龍一と言えば「戦場のメリークリスマス」しか知らなかった。小さいながらに疎外感にたまらなくなり、宿題をもって母屋に引っ込む。
そこでは、肥った短髪の女が、干し柿をネチネチと食べながらワイドショーを見ている。祖母である。ハサミなど危険なものが散乱している紺色のソファーの上に電気毛布を敷いて、テレビに向かって悪態をついている。
わたしに気が付くと、「まんず座れ」と言う。
そして干し柿を口元に押しつけ、「ケ(食え)」と言う。
干し柿が嫌いなわたしは、食べないと祖母がキレるということをすでに知っているので、嫌々口に含み、あまり噛まずに飲み込む。干し柿はしばらく食道に張り付いているようで、胸が微妙に苦しくなる。この干し柿はおそらく、祖母が勤め先の産直センターでもらってきたものだ。あかぎれのあるガサガサした手の、年のいった女たちがたくさん働いている場所だ。祖母は産直センターで人気者で、こういうもらい物は優先的にまわってくる。
祖母は冷凍庫焼けしたアイスや、瓶に入ったおかき、絶望的な濃さの緑茶を矢継ぎばやに出してくる。そして、口角泡を飛ばしながらわたしに話しかける。
「昔は川さ行って野菜だのなんだの洗ったのス。したっけ人参流れて来たおん、おらも食えるど!ってケばうまくねぐてよ」
「かっちゃんベビースターにやられたのス」
「だぁれあったな裸みてな恰好であるってらのがいぐねのス」
「おめはんもよぐね童だごと」
上から順に、「祖母が人参を嫌いになった理由」、「祖母の母、つまりわたしの曽おばあちゃんが、足のあかぎれにベビースターが挟まって悶絶した話」、「薄着して出歩く若者が風邪をひく話」、「わたしが性格の悪い子供である話」を示す。祖母はだいたいこんな感じの話をよくしていた気がする。
その生臭い生命力のある祖母の世間話は、祖父のお仲間たちの言葉よりもずっとリアリティがあった。川に流される人参をガリリとかじってまずさに顔をしかめる幼き日の祖母が、あかぎれにベビースターが挟まって悶絶して周囲にキレ散らかす曽おばあちゃんの姿が、なにより「よぐね童っこ」というわたしにおあつらえ向きの形容詞が、生々しい実体をもってわたしの身体をガンガン殴ってくる感じがした。それは、しばしばナルシスティックな空想に浸りがちな子供心を、現実に連れ戻すには充分だった。ホグワーツに入れないわたしは、ニンバス2000から振り落とされて、もち米がよく育つド田舎のこの大地にビターンと叩きつけられたのだった。
なぜ祖父が祖母と結婚したのかずっと疑問だった。祖父がやる喫茶店にも「光熱費のムダ」と文句ばかり言い、ワイドショーを見ては政治家や芸能人に文句を言うのが趣味の祖母に、いつも祖父はあきれたような顔をしていた。でも今ならなんとなくわかる気がする。詩や小説が好きで、音楽にも一家言あるような人間は、しばしばナルシスティックな空想に捉われ、現実を生きられなくなりがちである。すぐに彼らは「彼方」を用意してそこに逃げようとする。自分を「特別」だと思おうとする。すると現実のなかで理想だけが空転するようになってしまう。祖父もまた、祖母によって、祖母の言葉によって地面に叩き落とされることを望んでいたのではないだろうか。
わたしが祖父のお仲間たちをいけ好かなく感じたのは、幼いながらに自分と似た成分を感知したからかもしれない。それと似たようなことが大学に入ってからもあった。先輩が何人かで文芸誌をつくったから、その刊行イベントをブックカフェでやるというので誘われて行ってみたことがある。ブックカフェという場所にも興味があった。しかしまあ行ってみると、ソフトな地獄だった。刊行するまでの内輪での苦労話、今「文芸誌」という古風な媒体を選んだのがいいよね~みたいな話。こんな排他的な空間を作る人たちに、「あたらしい言葉」とやらが降りてくるだろうかと疑問に思った。何か集団で空想に捉われているんじゃないだろうかと気持ち悪くなり、早々にブックカフェを出ると、似たように同じゼミの男の子が出てきて、お互い絶妙な距離を保ちながらはや歩きで帰った。
昔、わたしは本当に嫌な子供だったと思う。勉強も得意で、言葉もよく知っていた。講釈も垂れた。父に「高飛車だぞ」と怒鳴られ、床に顔を押しつけられたことがあった。今でも高飛車である。地面にしっかりと足をつけて現実を生きる強さをあまり持たないくせに、すぐに空想のなかで高みに上り、批判精神ばかりが肥大していく。知ったかぶりをして、優越の意識を持つ。祖父のお仲間たちや大学の先輩たちへのいら立ちは、彼らを鏡にして自分を覗き込んでいたということである。彼らが実際のところどうだったか、本当はよくわからないのだ。そういう風に見えていたという時点で、まあ、わたし自身がそういう風だったということだろう。
わたしには、地面に叩き落としてくれる祖母の言葉のようなものが必要である。「お前は特別でもなんでもない」「這いつくばって生きろ」と教えてくれるような、そして日常こそが最もおもしろいのだと示してくれるような言葉が。それは、カルチャー界隈の人たちが集まる店にも、内輪で創って趣味の良い本屋でだけ売られるような文芸誌のなかにも、きっと無いだろう。だんだんにそういう言葉を自分で発せるようにならないといけないと思うけど、まずはどんどん摂取しないといけない。逐一自分を叩き落とさなくてはいけない。
そういうわけで最近聴いているのはGEISHA GIRLSのKick & Loudである。
これはダウンタウンの地元、尼崎の言葉でつくられたラップである。貧しかった労働者たちの象徴のようなこの言葉が意味不明ながらもドライヴ感を持って迫ってくる。祖母のにらみつけるような眼差しと、唾を飛ばしながら語り掛けてきたあの勢いのある言葉たち、そんなものを思い出せるのである。するとだんだんこちらの身体もドライヴしてくる。空想に占領されていた身体が、スッと戻ってくるようなそんな感じである。
森岡のオッサン
メチャ臭い屁こいて朝から寝てまんねん
「Kick & Loud」作詞:Ken/Sho 作曲:Towa Tei
わたしはこれの東北弁を聞いてきたのである。
あの頃、公文式で苦悶していた
はい。
この鞄を見て、一瞬にして時をかけた人も多いのではないでしょうか。「くもん行っくもん♪」でおなじみのくもん学習指導教室のバッグですね。
ついこの間、この黄色とネイビーの鞄を持った子供たちが脇を駆け抜けていったとき、まさしくわたしも時をかけました。過去の風が吹いた、と感じました。わたしもまた、かつてはくもんキッズだったのです。
齢5歳にして「幼稚園行くのめんどいな」という感覚をもっていたわたしは、割りばしを削る、たんぽぽの茎を割いて水に沈めてクルクルにする、などの地味な作業に明け暮れるだけの空虚な生活をおくる残念なキッズでした。
そんなわたしに「○○ちゃん、おべんきょうとかしてみる?」と母が問いかけてきたのがはじまりでした。まるで何のことだかわかりませんでしたが、「おべんきょう」とやらで空虚な日々を埋めることができるのならそう損な話ではないと思い、「よかろう」と答えるとすぐさま母も「承知」とのことで、入塾の手筈がスピーディーに整いました。
連れていかれたのは、家のそばのくもん教室ではなく、なぜか車で10分くらい離れた祖母の家の近所にあるくもん教室でした。なるほど、そもそもわたしをくもん教室に通わせるというのは祖母の目論見だったのだなと気が付いたのはしばらく後のことです。よくよく考えれば母はわたしの勉強についてとくに興味がなさそうでした。一方の祖母はまだ幼子のわたしに『雨ニモ負ケズ』を百回書き取りさせるなど、教養スパルタ婆さんとしての才覚を発揮しており、なるほど「幼いうちからくもん式に通わせて賢い子にしよう」という計画を考えそうなわけです。
そういうわけでわたしは、まるで幼くて何もわかっていなかった5歳から、心身ともに発育し現在22歳のわたしと大体同じ位の背丈になった小学6年生になるまで、くもん漬けの日々を送ることとなったのです。
わたしは数学と国語を選択しました。
主に力を入れたのは数学のほうでした。いや、最初はさんすうだったのですが。
5歳の時分は、この大きな7を一生懸命にえんぴつのよれよれの線でなぞっているだけで大いに褒められました。1,2,3,4,5と順番になぞっていって、表ができたらシートをペリッと他のシートから切り離して裏面にいきます。このペリッが子供心に楽しく、どんどん鉛筆は進み、わたしはくもん教室のエリート街道を走り始めたというわけです。
わたしはつぎつぎに「進級」し、シートに書かれている文字はどんどん小さくなり、やがて×だの÷だの√だの≧だのが登場するようになり、いよいよめまいを覚えながらシートに向かうようになりました。持ち前の真面目さで「やらなきゃやらなきゃ」と歯をくいしばりながらがんばるうちに、自然とそうなっていったのです。そう、小学生にして高校数学を解くようになったのです。その教室に張り出されている進度ランキングを見ると、わたしの名前、ひどく凡庸な名前が書かれた平たいマグネットが一番上に申し訳なさそうにベタッと貼ってありました。はじめの頃は「負けないぞ~!」などと話しかけてくれた男の子にも、すっかり距離を置かれるようになってしまいました。
小学校でももちろん「算数ができる人」として認知されました。クラスの催しで「バースデーカード」を全員からもらったときに、そのほとんどに「計算がはやいね」とか「計算がせいかくだね」などと書かれていて、CASIOが誕生日を迎えたらこんなかんじかしらんと洒落たことを考えながらも切ない気持ちになっていました。あのとき、「○○ちゃんはお話がとっても面白くてたのしいよ」と書いてくれたたった3人くらいの子たちの幸せをわたしは今でも祈り続けております。
ところで、わたしはそのとき県内で進度が2位とのことでした。これに教室の先生は大いに喜び、「頑張ろうね、期待してる」と声をかけてくれました。わたしは「いよいよ参ったな」と思いました。なぜなら、そろそろ数学教材がわたしの理解の範疇を超えそうになっていたからです。毎日毎日何時間も放物線を書き、少し休んでは鉛筆で真っ黒になった手を呆然と眺めました。
先生に質問に行くと「自分で考えてみて」と返され、そう言われるとわたしはもう教室の隅っこで頭の上におっきな「?」マークを浮かべながら座り続けるしかありませんでした。気が付けば、教室に来てから6時間も座っていました。どうしてこんなにわからないんだろう、わたしは何をやっているんだろう、と自問自答を繰り返し涙をこらえながらじっと座っている。それが小学生の頃のわたしでした。
「さすがにもう帰っていいよ、またね」と言われ、引き戸をガラガラと開けて外に出ると夜風がすうっと冷たくて、鼻の奥がツンとするけど、これから向かう祖母の家の冷凍庫にあるパリパリチョコサンデーアイスのことを考えると涙は引っ込んで、バタバタと帰路を駆けたのでした。
そう、だましだまし頑張っていたけどわたしはもうすでに限界に向かっていました。そして、理解度が限界に到達すると同時に「中学校進学」といういい節目を手に入れ、先生に引き留められながらもスッパリとやめてやったのです。思い出がないわけではないですが、あのときほど「自由を手にした…!」と感じたことはありません。
くもんのことを思い出すと、ひとつ忘れられない光景があります。
書いていませんでしたが、わたしの2つ上の兄も一緒にくもん教室に通っていた時期がありました。兄もわたしと同じように、くもんに通うことに大きなストレスを感じていたようでした。そのため、兄はくもん絡みとなるとときどきトリッキーな行動をするようになっていました。教室内にカナヘビ(小さなトカゲのような生きもの)を持ち込んで、解き放ち、教室に悲鳴をもたらしたこともありました。 よく会社員の方などが「会社に隕石落ちねえかな」などと言いますが、まさにその発想でささやかながら実際に行動に移してしまうような深刻な状況だったのです。
ある日、わたしと兄はかなり早めにくもん教室についてしまい、外で開くのを待っていました。教室のすぐそばには小川が流れていました。キラキラと光が反射した底浅のその小川を橋の上から見下ろしながら、わたしと兄はなんとなく憂鬱な気持ちを共有していました。
兄は橋の手すりにもたれかかり、鞄を持った手をぶらりと小川の真上に投げだしていました。
「落としちゃうかもよ」と言うと兄はあいまいに笑うだけでした。
すると次の瞬間、ネイビーと黄色の影がシャッと小川へと落ちていきました。兄の手を滑り落ちた鞄は、清らかな水の上をなんとも呑気に滑っていきました。
兄は「お、落としちゃった!」などと慌てるふりをしましたが、嘘であるのはバレバレで、その顔は今手に入れた自由をかみしめて輝いていました。
そのすぐあとに、兄はわたしより先にくもん教室をやめました。
キラキラと輝く小川を流れていった、あのくもんバッグ。わたしのなかでそれは、女神像にも代えがたい「自由の象徴」として心の奥に残りつづけているのです。
テトリスに狂った男、父
この世でいちばん暇な人が誰だか、皆さんご存じだろうか。それは、今この地球のどこかでテトリスに興じている人である。
テトリスとは
いわゆる「落ち物パズルゲーム」の元祖。「上から落ちてくる『4個の正方形で構成された7種類の多角形ブロック』(テトリミノ tetrimino)を操作して、埋まった横列のみが消えるのを利用してテニス(tennis)のラリーのようにひたすら消し続けていく」という単純明快なルールと直観的な面白さで世界規模で大ヒットした。
4個の正方形からできた4種類のブロックを操作して横列を消していく簡単なお仕事。たいていこれをやる人間というのは、何かを先延ばしにしているか、本気で暇かのどちらかである。
寝そべって、ポテトチップスサワークリームオニオン味などを食べながらべとつく手でテトリスに興じている人間がいたら、そういう人間こそ「生産性」で槍玉にあげられるべきだろう。
かくいうわたしもついこの間、なぜかうっかりテトリスをインストールしすっかり狂ってしまった。空き時間があれば手が勝手にテトリスを開き、色とりどりのブロックを捌きはじめる。上の方にどんどんブロックが詰まってきて、にっちもさっちもいかなくなると悔しい思いがこみ上げて脳に血がたぎるようで、もう一度やってしまう。なにかやるべきことがあったような気がしても、やめられない。なんだかテトリスのことばかり考えてしまう。テトリスに肉の芽を埋め込まれたかのように。(わたしこれ好きですね)
しかし、テトリスをぶっ続けで数時間やってしまい外が暗くなっていたとき、やっと「これはマズい」と感じ、断腸の思いでアンインストールしたのがおとといのことである。テトリスに支配されていた頃のわたしが今は遠く感じる。
しかしわたしがテトリス郷に支配されてしまったのは、必然ともいえることだった。それはもともと組み込まれていた「血の宿命」であった。
そう、わたしの父こそテトリスを愛しテトリスに狂わされたその人であったのだ。
https://marple-hana1026.hatenablog.com/entry/2018/10/05/父という名の野性
このブログにもすでに登場している父であるが、ざっくりどんな人物かを説明しておくと、ずば抜けて無口で野性味にあふれ、何を考えてるんだかあまりよくわからない歯のないお父さんである。仕事は専門的な知識が要る情報インフラ系のことをしていて、なかなか出来るみたいだけど、家にいるときは本当に暇そうである。趣味は夏に鮎釣りをするくらい。家族ともそれほど喋らない。最近は猫に猫なで声で話しかけるなどの変化が見られるようになったが、やはり基本的に無口で暇そうにしていることに変わりは無い。
その父が家で見いだした生粋の余暇がテトリスであった。
まだ携帯がこんなやつだったとき、最初に入っている唯一のゲームがテトリスだった。父はいつも、眉をしかめた「結婚は認めん」顔でひたすらテトリスに興じていた。
夜ご飯を食べ終わったらテトリス。コーヒーを飲んでテトリス。風呂から上がってテトリス。
テトリス特有のあの音楽が休みなく流れた。
ある日わたしも暇で、父がテトリスをやっているのを横から覗き込んでいた。母もやってきて反対側から覗き込んでいた。この世でいちばん暇な家族である。
父は本当に熟練の動きでテトリスを捌いていた。甲子園いけるくらいの練習量なのだからあたりまえである。ボタンはテトリスによって摩耗されつつあって、決定キーは押すたびにキュッキュッと軋む音がした。だんだんテトリスのテーマ、コロベイニキが速くなっていく。父の指もいよいよ俊敏の高みに登っていく。生唾を飲んで見守るのは、テトリスに興じる男によって生活を守られている主婦とその子供。リビングは緊迫していた。
そのとき、それは起こった。
ビーン!という音がしたかと思うと決定キーがビヨーンと飛びだしバネがむき出しになった。あまりにテトリスに酷使され、ボタンが限界だったのだ。
それまで父の動きに従っていたブロックが制御不能になり、めちゃくちゃに落ち始めた。ストーンストーンとひたすら落ち始めた。
父が「ええいクソ!!!!!」と叫んで携帯を投げた。打ちつけられた携帯からはまだテトリスの音楽が流れていた。
この一連のことが数秒間で起こった。
わたしと母は、テトリスに狂い携帯をぶっ壊した男を唖然として眺めた。
それ以来、父がテトリスをやるのを見たことがない。今はスマホで大谷翔平選手について調べるのが生きがいのようである。
時代は変わった。
テトリス狂いはわたしに世代交代してしまぅた。
あなたはほうじ茶でアガれるか? おばさん群像劇『滝を見にいく』
「あんただっておばさんになるのよ」
背中にぴしゃりと投げつけられた言葉を払いのけ、「なるもんですか」と思いながらずんずんと生きていくうちに、少女たちは瞬く間におばさんになっていく。「かわいいおばあちゃんになりた~い♡」と言う少女はいても、「ええかんじのおばさんになりてえ」とつぶやく少女はあまりいない。「わたしたちっておばさんだよね~」などと言っているアラサーのお姉さん方も実は自分のことを本気でおばさんだとは思っていない。彼女たちはどこかで「おばさん」はフィクションだと思っている。
いつも「ほどの良いおばさん」として日々働いたり、近所づきあいをしたりしているわたしの母。
しかしそれでも彼女は言う。
「心がね、追いつかないのよ。おばさんなのに」
「気持ちだけはいつでも若いつもりだからさ」
そう、ハートの部分はたぶんあんまり変わらない。ちょっとシミができたり、首のところにざらつくイボができたり、傷の治りが遅くなったりするだけである。心が追い付かないのに、まあなんとなくおばさん然とした振る舞いが妥当なんだろうと思いながらおばさんというフィクションを演じるうちにおばさんとして円熟していく。昔もっていた鮮烈な思いとか、傷つきやすさとかそういう繊細な感情は、ほんのちょっとだけ心に隠しておきながら。みんなそういうおばさんに見まもられてきたのだ。
おばさん然としながら、心にひっそりと少女を飼う。
わたしはやっぱりそうなりたい。感受性が豊かすぎるままでは、とても80年も生きては行けない。何より心が不安定だと他人にやさしくできない。少しずつ心の感度を下げていって、ちょっとガサツでもやさしくおおらかなおばさんになりたい。でもどこかに繊細な部分も残しておいて、自意識過剰で傷つきやすい若者にも共感できるようでありたい。たまに自分の甘酸っぱいところをひっそりと取り出しておきたい。
そういうおばさんになるためにひとつ必要なのは、たのしむ技術である。というより、「勝手にたのしむ技術」である。
他人に自分の価値を求めるでもない、「何か楽しいイベントはないか」と騒ぐのでもない。ひとりで勝手に日々のことをたのしんで、心をうるおしている。気が沈むことがあっても、そういう日々の小さな楽しみで心を修復させて、やっぱりおばさんとして振る舞って他人を少し安心させる。
そういう技術を盗めるのがこの映画『滝を見にいく』である。
前置きが長すぎますでしょう?しかもなんか話がつながっているんだかいないんだかよくわからないでしょう?きっとこれはわたしがおばさんになっても変わることがないのでしょう。
この映画、簡単に説明するとおばさん7人が「紅葉を見て、滝に感激し、その後は秘湯で至福の時を過ごす」という内容のバスツアーに参加したはずが、業者の不手際により山中で迷い、一晩みんなでいっしょに野宿することになるという内容。
ほんとうにこれだけ。7人のおばさんそれぞれのデティールがしっかり描かれていて、濃密なおばさんあるあるが楽しめる。
この方のブログ、おばさん7人をしっかり講評していてよかった。
- 腰に爆弾を抱えたクワマン(桑田さん)
- クワマンと仲良しでオペラを嗜むクミ(田丸さん)
- 山野草マニアで写真展への作品を出すために山に来たサバイバルスキルの高い師匠(花沢さん)
- 師匠をリスペクトし山のルールに従う弟子のスミス(三角さん)
- ぼんやりとした主婦のジュンジュン(根岸さん)
- 夫に先立たれながらも彼に影響されて始めたバードウォッチングを続けているセッキ―(関本さん)
- 昔水商売をやっていた感じのするユーミン(谷さん)
この7人のおばさんが夜中に火を起こしてキャンプファイヤーをしたり、食料をゆるく探したり、なぜか少しだけはっちゃけて縄跳びをしたりするのをひたすら真顔で見る1時間半。一夜にしてけっこう衰弱するおばさんたち。
これだけ聞いていると「観て楽しいのか?」と思うはずである。
しかしなぜか楽しいのである。おばさん一人ひとりに愛を込めて描いているのがよくわかる。中途半端なズボンの丈感とか、サンバイザーとか、バスの中でなんかいろいろ食べているとことか、そういう「おばさん」然とした細かな描写が楽しい。おばさんのガサツな部分、下世話な部分、たくましい部分、もろい部分、憎めない部分、少女みたいな部分。さまざまなデティールが、笑いを誘ったり、切なくさせたり。
いくつか大好きなシーンがある。
セッキ―が山の中で夢を見て、枯れ野原の中に死んだ夫を見つけて「行かないでぇー!」と叫んで目が覚めるシーン。野原のなかをヨタヨタと走るセッキ―。消えていく夫の影。一緒にバードウォッチングを楽しんだ、最愛の夫。先にいなくなってしまった夫。セッキ―は悲しみを抱えながら、それでも呑気な感じのおばさんとして日常を続けていくんだと思うと切なくいとおしい気持ちになる。バードウォッチングを楽しんで自分の心をうるおしながら、悲しみをだましだましで生きていく。セッキ―に幸あれ。
あとクワマンとユーミンが山で迷子になったイライラからお互い攻撃的になって大喧嘩に発展し、結局夜中に一緒にヤニを吸うことで仲直りするシーン。二人の大人げない感じがとても人間らしくていい。(バイト先とかにいたら嫌だけど。)二人とも年季の入った吸いっぷりで、これまでの人生遍歴をうかがわせる。「一回ブチキレ合って、また仲直り」って、なかなか大人になってから経験できることではないと思う。一服がもたらした、交わらないおばさんどうしの人生を繋ぐかけがえのないひととき。
最後に一番好きなシーン。
かなり序盤、まだ山中で迷う前、クミが水筒を取り出しツレのクワマンと一緒に飲むシーン。
クワマン「それ(水筒)なに入ってんの」
クミ「ほうじ茶(クチャクチャと何か食べながら)」
クワマン「ナァ―イス(低音)」
いかがだろうか。このシーンの味わいは実際に見てほしい。
ふつう、人の水筒の中身がほうじ茶だったぐらいで「ナァ―イス」と言えるだろうか。アガれるだろうか。なんでもない水筒の中身のお茶にもちょっとした「差異」を見出し、たのしむ。これこそ、「勝手にたのしむ技術」の真骨頂ではないだろうか。
大好きなエレファントカシマシの「悲しみの果て」という曲のなかにこんな部分がある。
部屋を飾ろう
コーヒーを飲もう
花を飾ってくれよ
いつもの部屋に
乾いた心をうるおし、生きる力を取り戻させるのは、日々の暮らしにおけるほんのちょっとの「差異」である。いつものようにめぐる朝の、コーヒーの香りの微妙な違い、再現しようもない花のかぐわしさ。
しかしおばさんくらいのたのしむ達人になると「コーヒーを飲もう」でなくてもよく「ほうじ茶を飲もう」でもいいのだ。充分アガれるのだ。もっとエスカレートすると「お白湯でも飲みましょ」になるかもしれない。そこまで来たらもう怖いものなしである。何もかもが輝いて手を振るだろう。
『滝を見にいく』、おばさんの群像劇として素晴らしいうえに、今後の人生の指針まで与えてくれた。
わたしは今後ものすごいはやさで歳をとるけれど、目指すところはただ一つ。
シラフでほうじ茶でテンションを上げられるおばさんになることである。
旅の恥をかき捨てると自我が崩壊する
ついこの間、所用で箱根鉄道のとある駅に行った。博物館でひとしきり見学したあと駅のホームにたどり着くと、登山の装備をした楽しげな高齢者集団や、ツーリングみたいな恰好なのになぜか鉄道に乗ろうとしている中年集団などがわらわらと憩っていてにぎやかだった。
当然だけど誰も知っている人はいない。
わたしは「遠くまできたもんだ」と思いながら、自販機で缶コーヒーを買い、ベンチに座って「金属の味がする」と思いながら飲んだ。日差しが強く、黒ずくめのわたしには熱がこもっていて、頭がぼーっとした。
赤いお菓子の箱のような電車がやってくる。この電車に乗って小田原についたら田舎のばあちゃんのために鈴廣のかまぼこでも買って、横浜まで帰ろうと思った。なのに身体が動かなかった。誰もかれもみんな楽しそうに乗り込んでいく。乗らなきゃと思うのに、とりもちでもついているかのようにベンチから尻が離れなかった。
乗り込んでいく人たちに対して、「あ、いま膝に猫乗ってるんで」とまったくわかりきった嘘を心のなかで言いながら、赤いお菓子箱を見送った。
「ずっとこのままでいいかな」と思って動きたくなくなるときがたまにある。
居酒屋のトイレで、男性が使ったあとに便座を上げっぱなしにしていることに気がつかず、尻が便器にすぽっとはまったとき。「いつもきれいにご使用いただきありがとうございます」という字を見ながら、「もうずっとこのままでいいかな」とほろ酔いの頭で思ったりした。
ほかにもある。小学生のとき、アイスの実にはまっていた。
アイスの実 うらごしピューレ入り グリコ コンビニスイーツ日和!
10年くらいまえのよそさまのブログから画像を拝借してきた。そうそうこんなのだった。このカラフルな冷たい玉がきっしりと入っているのが好きで、毎日のように食べていた。
その日はアイスの実をコンビニで買い、我慢できずにすぐに開けて2つくらい食べて残りをカゴに入れて家路に急いでいた。小学生特有のあまり意味のない立ち漕ぎをしながら、急いでいた。しかし立つたびにカゴの中身のアイスの実が気になる。おいしそうなカラフルな玉たちがじりじりと溶けながら揺れている。
気づくとカゴの方に手を伸ばしていた。指がちぎれそうなほどに、アイスの実を求めていた。
するといきなりノーハンド運転になった自転車はバランスを失い、思わぬ方向に進んでいった。景色が変わった。電柱のグレーが視界を覆ったかと思うと、サドルから股間に強い衝撃が加わり、空が見えた。自転車は横転し、劇場版るろうに剣心の佐藤健ばりのスライディングを決めて滑っていった。
熱せられたアスファルトには、カラフルな甘い香りのする球体と、わたしが転がっていた。
こうして寝っ転がっている間にもアイスの実はじりじりと溶け、膝からは血が染み出していくというのに、起き上がろうとは思えなかった。なんかちょっと素敵なひとときにすら思えた。頭と身体がつながってるんだかつながっていないんだかわからないけど、ぼーっとして心地よかった。
あのときほど、「このままこうしていようかな」と思ったことはない。
とまあ『失われた時を求めて』のごとくどうでもいい人生の断片の回想シーンが走馬燈のように頭を駆け巡って、ホームのベンチで一人死んだ目でコーヒーをすすった。どうでもいい断片である。だれもこんなこと知らないし、知らなくてもよい。
思えばずっと暇な人間だった。暇な幼稚園生、暇な女子小学生、暇な女子中学生、暇な女子高校生を経て、暇な女子大生なのである。しかしインターネットにうといわたしでも、暇な女子大生はすでに名乗られ尽くされているので使用しないほうがベターだということを知っている。本当に暇な女子大生が「暇な女子大生」を名乗ることのできないこの世の中、「暇な女子大生」の再分配がなされるべきではないだろうか。違いますか。そうですか。
なんだかやさぐれたので、ベンチから降りてちょっとウンコ座りをしてみた。ついでにリュックからパンを取り出してかじってみた。足元には飲みかけの缶コーヒー。そして何年かぶりにチッと舌打ちをする。
自分史上最高のワルが出来上がった。普通は缶コーヒーに煙草であろう。そこをわたしはパンである。しかしこれは純然たるワルなのである。だってパンはチョリソーソーセージパンである。
知らない場所で、知らない人がポツリポツリといるなかで、ワルになっている。
「いや、誰だよ」と脳内の誰かがツッコむ。
わたしはその声を聞きながら「ずっとこのままでいいかな」と考えるでもなく考えている。